幕間:『レヴィア・メモリー』
黒氷峡谷の最奥、六大部族長たちに見送られて開かれた大氷門をくぐり抜けた瞬間、外の世界の吹雪の音は完全に途絶えた。
t城内を貫くのは、冷え切った黒曜石で築かれた一本の主回廊。
t足音すら吸い込まれるほどの絶対零度の静寂の中、四人の足並みが重なり、規則正しい残響を壁面へと刻んでいく。
「……見てください、この壁面の損壊痕を」
歩みをわずかに緩めたルシアンが、右眼のアナライザー・モノクルを微かに明滅させた。
青年の視線の先――数十メートルの高さを誇る玄武岩の側壁には、人間や魔導兵器によるものではない、常軌を逸した損壊の跡が幾重にも刻み込まれていた。
岩盤を深々とえぐり取った巨大な爪痕。
超高圧の水流によって鏡面のように削ぎ落とされた断層。
そして、百年の凍結を経てもなお微かに赤黒く変色したまま残る、灼熱と腐食の飛沫跡。
「残留しているマナの波長が、極めて濃密かつ古い……。ここは単なる通路ではありません。百年前、先代勇者パーティーが始祖古龍――先代魔王レヴィア・ヴォルカクスと激突した、主戦場の直上です」
ルシアンのその言葉が落ちた、まさにその刹那だった。
トクン、と。
アリアの胸の奥で、心臓が跳ね上がった。
「っ……!?」
首元に巻かれた黒革と蒼銀のチョーカー――『星彩の首輪』に埋め込まれたレプリカ結晶が、突如として激しい七色の燐光を放ち始めた。
皮膚の奥底、決して消えることのない『原初の勇者の聖痕』が、熱湯を注がれたかのように脈打つ。
フィリアの中指の『祈誓の翠玉環』が、共鳴するように高く澄んだ鈴の音を奏でた。
視界が、急速に歪んでいく。
回廊の黒曜石が融解し、暗闇の奥から押し寄せてきたのは――血のように生温かく濁った潮の匂いと、大気を引き裂く暴風の咆哮だった。
(あ……たしは……?)
声が出ない。
自分の手を見下ろすと、そこにあったのは白銀の篭手ではなく、華奢で白皙の、小さな少女の手だった。
胸元には、皮紐で結ばれた七色の鉱石――本物の『星彩の誓石』。
アリアの意識は、百年前のあの日、この場所で誰よりも真っ直ぐに愛する人の背中を見つめ続けていた少女――初代聖女クラリスの五感と心象の中へ、完全に溶け込んでいた。
視界のすべてを埋め尽くしていたのは、天災そのものの具現だった。
海溝の最奥、暗雲と赤潮が渦巻く深海空間にそびえ立っていたのは、全長百二十メートルに達する異形の巨躯――始祖古龍『深淵龍母レヴィア・ヴォルカクス』。
黒鉄と化した硬質龍鱗が鎧のように幾重にも重なり、胸元の逆鱗の奥では、神樹の猛毒を圧縮燃焼させる心臓核が赤黒く脈動している。
咆哮一過、空間を深海の水圧へと変異させながら、三叉の衝角を振り上げて大気を叩き割る。
「がはっ……!? 効かねえな、この程度ァッ!?」
前衛の爆風の中、膝を屈することなく叫んだのは、ダンカンの野太い怒号だった。
擦り傷だらけの大盾『轟盾』を大地に打ち込み、左右非対称の無骨な装甲を軋ませながら、仁王立ちで高圧水流の奔流を受け止めている。
直後、轟盾の排気弁からガシャンと真鍮の薬莢が吐き出され、高圧の白煙が噴き上がった。
「ダンカン、そのまま踏ん張んなさいッ! 逃げ道は全部塞いでやるわ!」
側面の瓦礫を跳躍したエルが、両腕に抱えた『多目的パイルランチャー』を斜め上方へ斉射した。
放たれた三発の特殊粘着弾と金属ワイヤーボルトが巨龍の足元へ突き刺さる。
エルが空中で掌を大地へ叩きつけた瞬間、土魔法の錬金精錬が炸裂し、足元の岩盤が一瞬で高密度の金属へと変異して硬化、巨龍の尾と巨躯を地面へ完全に縫い留めた。
「レン、潮目ができたわよ! 喰らいつかせなさいッ!」
「――応ッ!」
クラリスの瞳が、その姿を捉えた。
心臓が痛いほど高鳴り、視界のすべてがその背中だけに収束していく。
黒髪を乱し、宙を駆ける二十歳手前の青年――レン。
聖剣も持たず、光の魔法の才能も皆無。
帝国の上層部から「無属性の欠陥品」と蔑まれ、生贄の捨て駒として送り込まれた被差別民の少年。
だが、その右手に握られているのは、ダンカンが命懸けで持ち帰り、エルが極限まで鍛え直した水棲巨獣骨の『変形剛竿』。
そして左手には、エルの最高傑作たる『十指魔導糸手甲』。
クラリスは、レンと交わした固い約束を守り、自らの寿命を削る『奇跡』の回路を閉ざしていた。
両手を胸の前で組み、純粋な信仰による『神聖防護結界』を頭上へ展開する。
降り注ぐ毒素の飛沫を黄金の光膜で弾き返しながら、クラリスはただ、魂の底から祈り続けていた。
(死なないで……! 私たちの、未来のために……!)
レヴィアの四つの琥珀色の双眸が、空中を疾走するレンを捉え、巨腕の爪撃を叩き下ろす。
大気が圧縮され、触れるものすべてを圧殺する質量の一撃。
だが、レンは空中で身を翻した。
――潮流知覚。
激流の川辺で泥にまみれ、魚と命のやり取りを繰り返してきたアングラーの身体知。
大気のヨレ、水流の渦、レヴィアがマナを励起させる瞬間の微細な気圧変化を、皮膚感覚で完璧に読み切る。
レンは人差し指【断の糸】を撃ち出し、空気の抵抗を切り裂くことで推進力を生み、巨爪のわずか数ミリ外側をすり抜けた。
「グオォォォッ!?」
空振りを悟ったレヴィアが、追撃として三叉の巨大衝角を猛烈な勢いで突き出してくる。
回避不能の至近距離。
しかし、青年の涼しげな瞳には、微塵の動揺もなかった。
「――掛かったな」
レンは剛竿を両手で構え、ブランクス(節)を弓なりにしならせて衝角の切先へと滑り込ませた。
リールに指を添え、限界まで締め込んだドラグをロックする。
――ドラグ・ロック・カタパルト!
チチチチチッ――!!
超高精度の魔導リールが、摩擦熱で火花を散らしながら金属の悲鳴を上げた。
全長百二十メートルの突進エネルギーを、竿の驚異的な弾性とリールの張力制御が一瞬で受け止め、内部へと蓄積していく。
そして――限界まで撓んだ剛竿のバットパワーが、溜め込んだ破壊力を倍返しの反発力として解き放った。
巨龍の巨大な頭部が、まるで大波に煽られた小舟のように、ガクンと上空へ跳ね上げられる。
完璧な体勢崩し。
無防備に晒された、巨龍の喉元。
反発の勢いを利用してさらに高く跳躍したレンは、空中で剛竿を背負い、左手の十指手甲を翻した。
狙うのは、装甲で覆われた外殻ではない。
激しく開閉する三重エラ板の奥深く――心臓と脳を直結し、巨躯の生命維持を司る主神経の結束点(延髄)。
「どんなデカい化け物だろうが……魚の構造をしてんなら、締め落とせない道理はねえんだよッ!」
左手の中指が、鋭く振り下ろされた。
――中指【貫の糸】。
極小の剛芯を宿した不可視の魔導糸が、水流の隙間を縫い、弾丸のようにエラ板の隙間へと滑り込む。
一切の装甲を傷つけることなく、主神経の核へ寸分の狂いもなく突き刺さる外科的刺突。
アングラーが過酷な水辺で獲物に敬意を払い、苦しませずに命を奪うための技術――究極の活け締め。
バヂンッ、と。
空間の芯が弾けるような硬質な音が、巨龍の体内で響いた。
「……っ!?」
咆哮すら上がらなかった。
全身を巡っていた天災のマナが一瞬で遮断され、レヴィアの四肢から急速に力が抜け落ちていく。
百二十メートルの巨躯が重力に従って傾ぎ、地響きとともに黒氷の底へと崩落した。
静寂が、戦場を包み込んだ。
着地したレンは、肩で息を乱しながら、着崩れた上着の袖で額の汗を拭った。
そして、駆け寄ってきたダンカンとエルに向かって、少年のように相好を崩したのだ。
「やった……! やったぞ、ダンカン、エル、クラリス! 終わったんだ……これで、海に行ける!」
「へへっ、やりやがったな小僧!」
「もう、ヒヤヒヤさせんじゃないわよ! 最高の一撃だったわ!」
仲間たちの歓喜の叫び。
誰もが、これで世界は救われ、自分たちは自由になれると信じ切っていた。
帝国が自分たちをどう利用し、どう使い捨てるかも知らずに――無知ゆえの、哀しいほど純粋な笑顔。
だが。
クラリスの視線は、倒れ伏したレヴィアの頭部から離れられなかった。
息絶えようとする巨龍の、四つの琥珀色の瞳。
薄れゆく金色の光の奥底に宿っていたのは、人間への怨嗟でも、敗北の怒りでもなかった。
それは、帝国の毒を一人で飲み干し、取り残された子供たち(六大部族)を命懸けで守り抜いてきた母龍が、目の前で無邪気に笑い合う人間の若者たちに向けた――身を裂くような深い哀悼と憐憫だった。
(……哀れな、人の子らよ)
声なき残留思念が、クラリスの胸へと直接流れ込んでくる。
(お前たちが命を賭して守り抜いたその国が……次に何を喰らうか、知ることもなく……)
レヴィアの巨躯から、紫黒の魔素が陽炎のように立ち上った。
何百年もの間、神樹の猛毒を受け止め続けてきた痛切な記憶の残滓。
その莫大な哀しみが、クラリスの胸元の『星彩の誓石』へと吸い寄せられていく。
クラリスは逃げなかった。
両手でペンダントを包み込み、ボロボロになりながら世界を受け止めていた巨龍の痛みに、ただ涙を流して祈りを捧げた。
悪意を浄化し、痛みを包み込む祈り。
七色の光が微かに揺らぎ、やがて来るべき反転の刻を静かに待ち始める――。
「――っ、はっ……、あぁ……っ!?」
激しい動悸とともに、アリアの意識が現代へと引き戻された。
膝が崩れ落ちそうになるのを、リンがすかさず駆け寄って両肩を支えた。
「アリア!? しっかりしなよ、どうしたんだい急に立ち止まって!」
フィリアが青ざめた顔で駆け寄り、柔らかな両手でアリアの手を包み込む。
「アリアさん、息が乱れています……! 神聖術を……!」
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
アリアは荒い息を吐き出しながら、首元の『星彩の首輪』を指先で強く押さえた。
頬を伝って流れ落ちたのは、冷や汗だけではなかった。
クラリスの心象と同調し、零れ落ちた大粒の涙。
「……視えたの。クラリスの目を通して、百年前のあの戦いが」
アリアの震える声に、ルシアンが眼鏡の奥の瞳を鋭く見張る。
「レンたちは……本当に、ただ四人で海に行くことだけを信じて、命懸けであの巨龍を倒したのよ。あいつらは、何も知らなかった。英雄になんてなりたくなくて、ただ笑って暮らしたかっただけだったのに……!」
アリアは拳を握りしめ、回廊の奥――魔王城の最深部を見つめた。
「そして……レヴィアも、悪の魔王なんかじゃなかった。国が垂れ流した猛毒から、残された命を守るための……最後の盾だったのよ。……今のレンと、まったく同じじゃない……!」
ルシアンが深く息を吸い、静かに呟いた。
「かつてレヴィアが背負っていた孤独の防波堤を……今度は、レンが一人で引き受けている。愛する者の亡骸を守り、世界の欺瞞を更地に均すために……」
ズゥゥゥン……と、地鳴りのような重低音が回廊を揺らした。
主回廊の突き当たりにそびえる、天を衝く黒曜石の大扉。
百年もの間、何者の侵入も許さなかった魔王城の心臓部――『永久氷晶宮』の巨扉が、重々しく左右へと開かれていく。
吹き抜けてきたのは、これまでの極寒すら温く感じられるほどの、絶対零度の静寂だった。
扉の向こう、氷晶が青白く輝く玉座の間。
百年前、レヴィアが愛する者たちを守って散ったまさにその場所で――
漆黒の儀仗外套を纏い、背後に全長二・五メートルの『黒骸の断罪柱』を自律浮遊させた青年レンが、静かに腰掛けていた。
その顔には、怒りも憎悪もない。
_百年前、息絶えゆくレヴィアが浮かべていたものと寸分違わぬ――すべてを悟り、冷え切った哀憫を湛えた「死人の能面」が、静かにアリアたちを見下ろしていた。
(第四十三話へ続く)
レヴィア第一形態
レヴィア第二形態




