第四十二話:『六大部族の試練』 第三節:託されし背中
静寂が支配する峡谷に、微かな衣擦れの音が響いた。
「……ねえ、フィリア」
肩で息を整えながら歩み寄ってきたリンが、八重歯を覗かせてニヤリと笑った。
「さっき、ルシアンのこと『ルシアン』って呼んでたよね? 『様』が外れてたよ」
「えっ……あ、あの……!」
フィリアの白い頬が、一瞬で朱に染まった。両手を慌てて口元に当て、狼狽えながら視線を彷徨わせる。
「そ、それは……あの緊迫した戦いの中で、つい口が滑ってしまい……! も、申し訳ありません、ルシアンさん……!」
「構いませんよ」
眼鏡の位置を指先で直したルシアンは、吐息とともに口元を微かに緩めていた。
「戦場において、敬称によるコンマ一秒の遅れは命取りです。それに……僕たちは、主従ではなく対等の仲間ですからね。むしろ、そちらの方が合理的です」
「ほら見なよ、フィリア! ルシアンも満更でもない顔してるしさ!」
「茶化すのはやめなさい、リン」
「あはは……もう、リンさんったら……」
極寒の地獄のただ中で交わされる、どこまでも温かな軽口。
その光景を、雪原に倒れ伏していたカルノスと、武器を失い立ち尽くすナディア、巨壁に背を預けたバウルが、息を呑んで見つめていた。
だが、三将の瞳から戦意の光が消えたわけではなかった。
カルノスが咆哮とともに全身の筋肉を膨張させ、フィリアの光の戒めを力任せに引きちぎって立ち上がった。ナディアが蛇尾を鋭く跳ね上げ、バウルが軋む身体を奮い立たせて生体鉱石の大盾を再び拾い上げる。
「……戯れ言はそこまでだ、人間ども」
バウルの重低音が、峡谷の空気を再び張り詰めさせた。
「仲間同士の信頼は見事だった。だが――我らの主が背負う絶望は、そんな生温い温もりで溶かせるほど浅くはない!」
「そうだ」
カルノスが素手を固く握りしめ、獰猛な水棲戦士の双眸をぎらつかせる。
帝国が仕立て上げた薄っぺらな偽勇者どもとは違う、目の前の少女が宿す真の覚覚悟を射抜くように吼えた。
「あのお方は、人間たちの欺瞞をすべて均し終えた後……自らの命ごと、この世界を終わらせるおつもりだ。お前たちに、その覚悟をへし折るだけの力があるのか! 最後の試練だ、勇者アリア!」
ナディアが鋭利な氷柱を新たに掴み、カルノスが素手の剛拳を構え、バウルが大盾を前面に押し出す。
満身創痍の三将が、残された魂の全魔力を燃え上がらせ、アリア目掛けて三位一体の突撃を仕掛けた。
それはもはや勝ち負けを超えた、自らの愛する主を救いたいと願う者たちの、血を吐くような最後の問いかけだった。
リンが前へ出ようとし、ルシアンがワンドを構えかける。だが、その二人を制するように、白銀の髪をなびかせた少女が一歩前へと進み出た。
第七皇女、アリア。
「みんな、下がってて。……この問いには、あたしが答えなきゃいけない」
アリアは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
首元に巻かれた『星彩の首輪』が、少女の澄み渡る心境に呼応して、七色の光の粒子を淡く散らす。
(あたしたちは、奪うために来たんじゃない)
(復讐の鎖を断ち切って、あいつを……レンを、あの冷たい玉座から連れ戻すために来たんだ)
腰の鞘に手を添える。佩用しているのは、アリアの魂に合わせて極限まで打ち直された神刀――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア・改(真打)』。
迫り来る三将の殺気と咆哮が、アリアの耳元でふっと遠のいた。風の音も、雪の擦れる音も消え去る。水のように。寄せては返す潮騒のように、呼吸を世界と同期させる。
「――誰も、殺さない」
目が見開かれた。
抜刀。
閃光は、直線ではなかった。大気中の冷気を優しく巻き込みながら、水流が円を描くように、流麗な弧となって空間を満たしていく。
蒼銀オリハルコンの光刃が描いたのは、相手を断ち割る刃ではなく、荒れ狂う高波を丸ごと包み込んで凪へと導く、慈愛の抱擁――
【蒼水一刀・波頭抱擁閃】
刃筋が、突進する三将の身体を滑らかに通り抜けた。血は一滴も流れず、肉の一片も裂かれない。
パキン、と乾いた金属音が三つ重なった。
カルノスが握りしめていた甲殻の装甲留め具が弾け飛ぶ。ナディアが構えていた氷柱の根元が、体温を奪うことなくサラサラと粉雪へと還る。バウルが構えていた生体鉱石の大盾の結束ベルトだけが、寸分の狂いもなく切断され、大盾が雪原へと静かに滑り落ちた。
三将の突進の勢いが、まるで柔らかな波の膜に受け止められたかのように、ふわりと霧散する。
完全なる武装解除。
殺気すらも包み込まれ、戦意の熱だけを優しく冷まされた三人は、自らの両手を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
「……切られた、のか……?」
カルノスが呆然と呟いた。肉体には傷一つない。ただ、武器と装甲だけが鮮やかに奪われていた。
「刃に……迷いも、濁りも、殺意すらなかったわ……」
ナディアが震える声でアリアを見つめる。
「あれほどの神業を持ちながら……私たちを、傷つけないなんて……」
アリアは神刀を静かに鞘へと納め、カチリと鍔を鳴らした。そして、三将へ向けて真っ直ぐな瞳を向ける。
「言ったでしょ。あたしたちは、誰も殺さない。……レンを、独りぼっちで凍えているあいつを救いに来たの。あいつに、もう一度前を向いて笑ってほしいから」
その凛とした佇まい、澄み切った言葉、アンド背後に立つ仲間たちの姿を見た瞬間――三将の脳裏に、百年前のあの光景が鮮烈にフラッシュバックしていた。
かつて、この魔大陸の泥濘に現れた四人の人間。細い糸で理不尽を切り拓いた、不器用で心優しき釣り師の青年。
慈愛の祈りで傷を癒し続けた、無垢な聖女。
笑顔でからくりを叩き、仲間を支え続けた、魔導技師の女傑。
そして、誰よりも頑強な盾となって仲間を護り抜いた、無骨な大男。
(ああ……そうか……)
バウルの無骨な瞳から、大粒の雫が零れ落ち、雪原に染み込んでいった。
(あのお方が失い、百年もの間、凍てついた心の底で求め続けていた光が……今、ここにある……)
カルノスが膝をつき、肩を震わせて声を上げて笑った。
「……完敗だ。ぐうの音も出ねえ完敗だ! なるほどな……これほどの熱がある連中なら……あのお方の氷を溶かせるかもしれん」
ナディアが目元を拭い、静かに頭を垂れる。
「……お願い、勇者アリア。あのお方を……私たちの王を、あの冷たい玉座から連れ戻してあげて。あのお方の凍りついた時を、動かしてあげて……!」
アリアは首元の『星彩の首輪』にそっと手を添え、力強く頷いた。
「うん。約束する」
地鳴りのような重低音が轟いた。黒氷峡谷の最奥、天を衝く黒曜石の絶壁に閉ざされていた魔王城ネクロ・アビスの巨大な外郭氷門が、ゆっくりと左右へ開かれていく。
冷気の奔流が吹き荒れ、城の最深部――『永久氷晶宮』へと続く一本の道が切り拓かれた。
バウルが立ち上がり、リンの肩を無言で力強く叩く。リンもまた、言葉なく拳を軽く打ち返した。カルノスとナディアが道をあけ、敬意を込めて新星勇者たちを見送る。
四人は振り返ることなく、歩き出した。
背中には、託された六大部族の祈りと覚悟の温もりがあった。
門の向こうで待つのは、百年の絶望に心を凍らせた、魔王レン。世界の欺瞞を解体する更地化の遂行者と、生贄の運命に抗う者たちの、魂の対峙が始まろうとしていた。




