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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第四十二話:『六大部族の試練』 第二節:氷霧の迎撃網

 バウルが膝をついた静寂は、刹那の猶予すら許さなかった。

 峡谷の奥から吹き抜ける冷気が突如として暴威を増し、天蓋を覆う鉛色の暗雲から、視界を白一色に染め上げる極冷の濃霧が雪崩のように流れ込んでくる。

 急速に奪われる視覚と体温。

 その白銀の帳の向こうから、大地を揺るがす獰猛な足音とともに、巨漢の雄叫びが轟いた。


「バウルを破った腕前は見事だ! だが、ここは魔王ネクロ・アビスの膝元……情けや手加減の通用する生温い庭じゃねえぞッ!」


 潮殻族長のカルノス。

 全身の藍黒色甲殻を軋ませ、身の丈を超える甲殻戦鎚を片手で軽々と振り回しながら、水棲の巨戦士が突進してくる。

 直線的な突進ではない。

 激流を泳ぎ回る海獣の如く、波のうねりを模した変幻自在の歩法で黒氷の地面を滑るように疾走し、アリアとリンの横をすり抜け、後衛の二人へと一直線に肉薄した。

 同時に、三十メートル上空の断崖から、大気の歪みすら伴わない冷徹な殺気が降り注ぐ。

 淵鱗族長のナディア。

 濃霧の奥に身を潜めた蛇尾の暗殺者が、音もなく放つ無数の不可視狙撃――『極冷の氷針(フロスト・ニードル)』が、ルシアンの頭上へ死の雨となって迫る。

 地上からの超重量突進と、上空からの無音狙撃。

 後衛を分断し、一挙に圧殺せんとする完全な挟撃網。

 だが、ルシアンがワンドを構えようとしたその瞬間、前へと進み出たのは、フィリアだった。


「ルシアン、上空の気配に集中してください! この方は……私が受け止めます!」


「フィリア……!?」


「もう、後ろで護られているだけの私ではありません! 私の祈りは、仲間を守るための盾です!」


 少女の瞳に宿る、揺るぎない覚悟。

 かつて神樹聖教の地下牢で生体透析の祭具として命を削られ、ただ絶望に耐えるだけだった元生贄の聖女。その面影は、もはやどこにもなかった。

 泥に塗れ、アリアたちの背中に支えられながら死線を越えてきた少女は、自らの意思で、巨漢の突進の前に立ちはだかったのだ。


「了解です……! 背中は預けましたよ、フィリア!」


 ルシアンは一切の迷いを捨て、上空の濃霧へと視線を切り替えた。二つの戦場が、完全に分かたれる。


「小娘が、真正面から立ちはだかるかァッ!」


 迫り来るカルノスの瞳に、驚愕と獰猛な闘志が交錯した。容赦はない。ここで手心を加えることこそが、命懸けで挑んできた人間への侮蔑だと知るがゆえに、巨戦士は甲殻戦鎚を両手で握り直し、全身の筋力を乗せて頭上から振り下ろした。

 数千トンの激流の重圧を宿した、大地をも叩き割る豪腕の叩きつけ。


「吹き飛んでも恨むなよッ!!」


 暴風がフィリアの華奢な身体を叩く。

 だが、少女は一歩も引かず、両手を胸の前で祈るように重ね合わせた。

 右手中指の『祈誓の翠玉環』が、透き通るようなエメラルドの輝きを放ち、腰帯のスロットから六基の『リリィ・ファンネル』が一斉に解き放たれる。

 六枚の白銀の花弁が、幾何学的な軌跡を描いてフィリアの目前へと展開した。


「――『八華光嶺結界(オクタヘドロン・サンクチュアリ)』」


 澄んだ言霊とともに、幾重もの正八面体プリズム光膜が重なり合い、透明な翠玉の多層防壁を形成する。激突の瞬間、カルノスの戦鎚から放たれた壊滅的な質量エネルギーが、結界の硬質な傾斜面へと叩きつけられた。

 激しい衝撃の余波が大気を裂き、氷の破片が四方へ吹き飛ぶ。だが――結界は軋みすら上げなかった。


「なっ……なんだと……!?」


 カルノスが目を見張る。

 叩きつけた戦鎚の手応えが、まるで巨大な深海の水流に飲み込まれたかのように、吸い込まれて消えていく。フィリアの結界は、単なる硬い壁ではない。

 悪意ある衝撃のベクトルを幾何学的に反らし、受け流し、聖女の祈りによって無害な光へと中和・吸収する絶対の聖域。


「これが、私の……アリアさんたちと共に歩むための力です!」


 フィリアが瞳を見開き、翠玉環を前へと掲げた。展開していた六基のファンネルが瞬時に陣形を変え、戦鎚を振り下ろして前のめりに硬直したカルノスの四肢へと、光の尾を引いて殺到する。


「すべてを鎮め、眠りたまえ――『白百合の戒め(リリィ・バインド)』!」


 ファンネルから紡ぎ出された翠玉の光帯が、大蛇のようにカルノスの巨躯へ巻き付いた。激流を操る戦士の豪腕も、頑強なキチン質甲殻も、光の蔦によって締め上げられ、黒氷の大地へとしなやかに縫い留められていく。

 戦鎚が手から滑り落ち、氷の上に乾いた音を立てて転がった。全身を光の戒めで拘束されたカルノスは、身動き一つ取れぬまま、ただ目の前に立つ小柄な少女を呆然と見上げた。


「……完敗だ。守られるだけの温室の娘かと思えば……なんという頑強で、澄んだ祈りだ」


 カルノスが制圧されるのと完全に同時刻、上空の濃霧の中では、もう一つの戦いが極限の静寂の中で展開されていた。

 フィリアが地上を完全に制圧したことで、ルシアンは全神経を上空の不可視の敵へと注ぎ込んでいた。


「カルノスが抑えられた……!? 馬鹿な、あのような小娘一人に……!」


 霧の奥、三十メートル上空の黒氷の断崖で、ナディアのエメラルドの双眸が激しく揺らいでいた。だが、暗殺者としての本能が即座に優先順位を切り替える。


(あの小娘の結界が厄介なら、先にあの眼鏡の術士の急所を貫く……!)


 ナディアは蛇尾を滑らかに氷壁へ巻き付け、漆黒の爪の間に十本もの『極冷の氷針』を挟み込んだ。大気の歪みと冷気の霧を利用した、気配なき全方位狙撃。風音すら殺した無音の刺突が、ルシアンの喉、心臓、額、両手足の関節を狙って、死角から一斉に放たれる。

 大気を切り裂く微細な空気の圧縮と、肌を刺す殺気の線。だが、ルシアンは避ける動作すら取らなかった。

 青年の周囲を自律浮遊する四基の真鍮環――『アストラル・バインダー』が火花を散らして超高速回転し、飛来した氷針のすべてを精密な偏向角で弾き落としたのだ。硬質な跳弾の火花が、青年の周囲に円環を描く。


「なっ……見えていないはずの狙撃を、すべて弾いた……!?」


「たしかに見えてなどいませんよ」ルシアンは右眼のモノクルを冷ややかに光らせ、静かに告げた。「ですが、見えないことと、観測できないことは同義ではありません」


 四基の真鍮環が、弾き返した氷針の破片から得られたデータを瞬時に青い数理式へと変換し、空間に投影していく。


「針の侵入角度、初速、大気の屈折率、そして霧の温度勾配……変数を代入。解はとっくに出ています」


 ルシアンが右手の『アストロラーベ・ワンド』を旋回させ、上空の濃霧の一点へと切先をピタリと定めた。左耳の『深紺の魔力貯蔵ピアス』が眩く燐光を放ち、圧縮された膨大なマナがワンドの砲身へと吸い込まれていく。


「数理の前に、隠れる場所など存在しないのですよ。――貫きなさい、『陽炎貫通光(パイロ・ピアッサー)』」


 引き金が引かれた。放たれたのは、極細に収束された紅蓮の超高熱レーザー。

 白霧を一直線に両断し、蒸発させながら虚空を翔けた閃光は、三十メートル上空の断崖でナディアが構えていた氷針の生成触媒――その指先の爪の隙間を、ミリ単位の狂いもなく撃ち抜いた。

 激しい魔力破裂の閃光が弾け、触媒の鉱石が過負荷によって一瞬で融解・破裂する。


「きゃあぁぁっ!?」


 触媒をピンポイントで焼き砕かれ、さらには足場の氷柱を熱光線で根こそぎ蒸発させられたナディアは、バランスを崩して宙へと投げ出された。蛇尾をしならせて必死に着地体勢を取るが、雪原に降り立ったその手からは、すでに武器のすべてが消え失せていた。

 霧が急速に晴れ渡っていく。峡谷に訪れたのは、完全な静寂だった。

 拘束され地に伏したカルノスと、武器を失い立ち尽くすナディア。そして、膝をついて肩で息をするバウル。魔王軍が誇る三人の部族長が、新世代の勇者たちの手によって、誰一人として命を奪われることなく、完全にその牙を抜かれていた。

 ルシアンはワンドを下ろし、眼鏡の位置を中指で直しながら静かに告げた。


「フィリア、お見事でした。完璧な防御と制圧です」


「はい……! ルシアンが信じてくれたからです!」


 フィリアが額の汗を拭い、晴れやかな笑顔を咲かせる。その二人の姿を、ナディアは息を呑みながら見つめていた。


(……なんという連携、なんという強さだ。机上の空論でも、甘ったれた理想でもない。互いの背中を命懸けで信じ合っていなければ、こんな芸当ができるはずがない……!)


 部族長たちの視線が、最後に、静かに前へと歩み出てきた白銀の髪の少女へと注がれた。

 第七皇女、アリア。試練の最終関門が、静かに幕を開けようとしていた。



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