第四十一話:『死の海メア・アビス渡海』 第二節:海溝の王と深海の円舞
深海三千メートルの完全な暗黒を切り裂き、百を超える青白い複眼が獰猛な光を放った。
三つ又に裂けた大顎門から放たれたのは、酸性汚染原水を超圧縮した黒褐色の高圧ブレス。
潜航艇を包み込む海水のすべてを腐食性の質量兵器へと反転させ、鉄塊ごと押し潰さんとする深海の必殺撃だった。
「来ます……っ!」
フィリアの切迫した声と同時に、艦橋の中央で翡翠色の光が爆ぜた。
少女は両手を胸の前で強く組み、中指に嵌められた『祈誓の翠玉環』へ祈るように精神を直結させる。
腰回りのスロットから解き放たれた六基の『リリィ・ファンネル』が、艦橋の天井へ向けて一斉に射出された。ファンネルは艦橋の魔導バイパス核へと吸い込まれ、艦内配管を通じて艇の外殻フレーム各所へ光の結晶となって同期する。
『――聖域展開、八華光嶺結界!』
ハイネマン・リバースの外殻全域に、正八面体の多層プリズム防壁が張り巡らされた。突刺さった黒褐色の酸性ブレスが、神聖な翠玉の光膜に触れた瞬間、無害な気泡と澄んだ海水へと急速に浄化・中和されて四方へ霧散していく。だが、巨獣が放つ数千トンの推進質量そのものは相殺しきれない。激しい衝撃が隔壁を揺らし、張り詰めた光の膜が歪む。
「うぅっ……! 光の膜がきしんで……! 魔獣さんの体当たり、重すぎます……っ!」
「問題ありません、想定の許容誤差内です」
コンソールの中央で、ルシアンの怜悧な声が静かに響いた。青年はスレートブラックのコートを翻し、左耳の『深紺の魔力貯蔵ピアス』に指を添える。ピアスが吸い上げた莫大な濃縮マナが、青年の生体回路へと奔流となって逆流した。
「――展開、『アストラル・バインダー』。四象連鎖演算、開始」
腰のホルスターから射出された四基の真鍮環が、青年の頭上と両脇に浮遊し、青白い魔導幾何学のホログラムを展開しながら超高速で自律回転を開始した。
右眼のモノクルが深海の全水流、水圧勾配、そして巨獣の甲殻の継ぎ目を瞬時に走査する。
ルシアンは中央に突き刺した『アストロラーベ・ワンド』を両手で握り、天球環を逆位相へと弾いた。
「潜航艇の全魔導投射孔、開放! 外部水圧三千トンのベクトルを座標系に反転……受けてみなさい、『水華徹甲刃』および『海溝連鎖雷撃』!」
外殻のスリットから解き放たれたのは、深海の超水圧そのものを刃へと圧縮した数百枚の不可視の水刃、そして海水を媒介にして青白く炸裂する高圧雷撃の奔流だった。
暗黒の海底が、昼間のような閃光によって一瞬にして照らし出される。雷撃を帯びた水刃が百足鯨の頭部外殻へ正確無比に突き刺さり、幾重もの節足甲板を粉砕した。
海水が激しく泡立ち、怪物が身悶えする。だが、深海の覇者は怯まない。傷口から黒い体液を噴き出しながら、百対の遊泳脚を一斉に唸らせ、巨躯そのものを鋼鉄の槌と化して潜航艇へ体当たりを仕掛けてきた。
「直撃コース! 舵の旋回速度じゃかわせないよ!」
叫んだリンは、即座に行動を起こしていた。
副操舵席へと飛び込み、腰部背面から伸びる『緋金剛・尾龍刃』を床の鋼板へ深く突き刺して反動を殺す。
そして、エレノアが遺した『魔導ドラグ機関』の極太な手動レバーを両手で力任せに握り込んだ。
右耳の琥珀ピアスが微かに熱を帯び、彼女の武術家としての研ぎ澄まされた皮膚感覚が、隔壁を越えて深海の海流のうねりと直結する。
「力任せに踏ん張るから、船がひび割れちまうんだ!」
リンは歯を剥き出しにし、怪物の衝突角度を見極めてレバーを一気に手前へと引いた。
「……魚の突っ込みはね、こうやっていなすんだよッ!」
怪物の巨大な頭部が潜航艇の側腹部に触れる、まさにその刹那。精密に調律された真鍮の歯車群が、軋み声を上げることなく滑らかに空転を始めた。
内部の生体腱ダンパーと衝撃吸収ピストンが摩擦熱の気泡を噴き上げながら、敵の突進力を受け流して回転運動へと変換していく。ハイネマン・リバースの黒金装甲は、怪物の激突に真っ向から耐えるのではなく、荒れ狂う海流に乗ってぬめるように横滑りした。打撃の芯を外された百足鯨の突進力は空を切り、巨大な胴体が潜航艇のすぐ脇を無様にすり抜けていく。
かつてレンが過酷な水辺で培った、大物の引きを糸一本でいなすアングラーの知恵が、巨大な潜航艇の操舵として完璧に結実した瞬間だった。
「リン、見事な制動です!」
ルシアンが叫ぶ。
「敵の運動エネルギーが失速、姿勢復元まで三秒の致命的硬直! アリア様、今です!」
「了解よ!」
指令シートから前進したアリアが、艦首衝角の魔導接続台へ、白銀と深紺の鞘――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア 真打』を力強く押し当てた。
円形銀鍔の星彩紋様が、艦首の衝角ラムと隙間なく噛み合う。
アリアは白銀オリハルコンの胸甲に手を当て、自らの血管を巡る『蒼血』を、艦のメイン回路へ向けて一気に解放した。
「貫きなさい……レガリア!」
チィィィン――!
澄み渡る納刀音の残響を反転させたような神聖な共鳴が、艦内全域を駆け抜けた。
艦首の衝角から、蒼銀オリハルコンの光芒を帯びた巨大な波頭の刃が、深海の中へと数十メートルにわたって伸長する。水は円を描き、弧を滑らせて万物を断つ。
潜航艇の可変スクリューが最大戦速で唸りを上げ、黒金の巨鯨そのものが一本の神刀となって、海流の弧を滑らかなスラローム軌道で滑り出した。
『蒼水一刀――波頭衝角閃ッ!!』
閃光が走った。
潜航艇の衝角が、百足鯨の無防備な側腹部を寸分の狂いもなくすれ違いざまに切り裂いていく。超水圧の抵抗を一切受けない流麗な円弧の一撃は、怪物の幾重もの外殻甲板を紙のように両断し、その巨大な核を正確に破砕していた。
怪物の巨大な複眼から光が消え、静かに海溝の暗がりへと沈み始める。
だが、死の海はそれだけで一行を逃しはしなかった。
両断された怪物の巨躯が海底の熱水噴出孔を押し潰した瞬間、海溝の底から、すべてを飲み込んで巻き上げる猛烈な深海サージ――熱水上昇気流が発生した。
「海溝底から超高圧の上昇噴流! このままでは渦に巻き込まれて圧壊します!」
ルシアンが叫ぶ。
「いいえ、逃げる必要はないわ!」
アリアが息を整えながら、凛とした声でルシアンとリンを見据えた。
「この上昇気流に乗るのよ! レンたちなら、この潮の湧き上がりを絶対に逃さなかったはずだわ!」
ルシアンは一瞬目を見張り、次いで不敵な笑みを口元に浮かべた。
「……ええ、まったく非論理的で、最高に合理的な判断です」
ルシアンとリンの手が重なり、主機関とドラグのレバーを同時に全開へと押し込んだ。




