第四十一話:『死の海メア・アビス渡海』 第一節 :漆黒の海底三千メートル
メルカトリアの巨大水門をくぐり抜けた瞬間、潜航艇の展望風防を満たしていたわずかな薄明かりは、墨汁を流し込んだような完全な闇へと塗り潰された。
外海の海流が、船首装甲板を激しく叩きつけていく。
深度計の真鍮針が、軋む音を立てて目盛盤の上を右回りに滑り落ちていく。
500メートル、1000メートル、2000メートル。
気圧計の針が跳ね上がるにつれて、鼓膜の奥がツンと締め付けられ、胸の奥底に冷たい鉛を流し込まれたかのような錯覚が肺腑を圧迫する。
地上では決して体験し得ない、骨の髄まで押し潰されるような超高圧の気配が、分厚い耐食鋼の隔壁越しにも伝わってきていた。
外殻の外側を撫で回しているのは、ただの冷たい海水ではない。
百年にわたり、帝都や四大門閥の拠点から大運河を通じて垂れ流され続けてきた、神樹の猛毒汚染排液。
そして、天蓋のほころびから外宇宙より圧入される、未加工の原水。
酸と高圧が混ざり合った死のヘドロが、まるで意思を持つ蛇の群れのように、潜航艇の外板を絶え間なく削り落とそうとしていた。
隔壁の継ぎ目から、締め上げられた鋼鉄が限界を試されるような、低く湿った金属の呻きが漏れ出す。
巨大な怪物の掌の中で、ゆっくりと握り潰されているかのような不気味な圧迫感が艦橋を満たした。
「ひっ……!」
操縦区画の脇に控えていたフィリアが、思わず肩をすくめて身を縮めた。
両手を胸の前で固く握りしめ、腰回りのスロットに整然と格納された六基の『リリィ・ファンネル』が、主の緊張を察知したように微かに震えを帯びる。
「だ、大丈夫だよ、フィリア……! あたしたちの船は、メルカトリアの職人たちの最高傑作なんだからさ……!」
隣で吊り革を握るリンが空元気な声をかけるが、その額には一筋の冷や汗が流れていた。
腰部背面に接続された多関節の『緋金剛・尾龍刃』も、主の張り詰めた気功に反応して、先端の大型尾刃を神経質に揺らしている。
「恐怖を感じる必要はありません」
正面の主操縦席から、水底の冷気よりも冷徹で、かつてなく落ち着いた声が響いた。ルシアンだった。
青年はスレートブラックの『アストラル・フィールドコート』の襟を正し、中央コンソールの魔導ソケットへ突き刺した『アストロラーベ・ワンド』の天球環を、左手で滑らかに回転させていた。
右眼の『アナライザー・モノクル』が青い魔導光を放ち、艦橋の半球天井一面に、深海の応力分布を示す無数の幾何学格子を投影している。
「この外殻の呻きは、破損の予兆ではありません。百年前、エレノア・ハイネマンが設計に組み込んだ『荷重分散フレーム』が、均等に外圧を受け流している証拠です」
ルシアンは細い指先でコンソールの真鍮レバーをわずかに倒し、マナ配管の圧力を微調整した。
「見ての通り、ムラサメ殿が外装の継ぎ目に流し込んだ蒼銀オリハルコンのシール材が、酸性汚染物質の侵入を分子レベルで完全に遮断しています。現在の外殻耐力指数は142パーセント。水深四千メートルまで潜航しても、理論上、圧壊の危険性は0.03パーセント以下です」
青年の淀みない数理の解説を聞き、フィリアはきゅっと縮こまっていた肩からふわりと力を抜いた。胸元で組んでいた指をほどき、エメラルドの瞳をふにゃりと緩ませると、花がほころぶような愛らしい笑みをルシアンへと向ける。
「よ、よかった……! ルシアン様がそうおっしゃってくださるなら、わたし、もう怖くありません。えへへ、なんだか本当に守られているみたいです」
「へっ、最初からそう言いなよ、ルシアン!肝が冷えただろ」
リンが悪態をつきながら、右耳の琥珀ピアスを弾いて笑う。ルシアンの左耳で瞬く深紺ピアスが、青年の瞳とまったく同じ知的な輝きを放ち返していた。
司令席に立ち、白銀のポニーテールを揺らしながら前方を見据えていたアリアが、ふと眉を寄せる。
白銀オリハルコンの胸甲の下、首元のステラ・チョーカーが、皮膚をチリチリと焼くような微弱な違和感を伝えてきた。
荒れ狂っていたはずの海流が、前方の暗がりでピタリと止まり、不気味な無風地帯のような淀みを生み出している。
「待って……何か来るわ」
アリアの警告とほぼ同時に、コンソールの中央に備え付けられた音波反響板――深海ソナーの魔導水晶が、限界を超える圧力を受けて激しい光点滅を繰り返した。
青く澄んでいた水晶の盤面が、一瞬にして禍々しい紅蓮の濁りへと塗り潰される。
「ソナーに生体反応……! 反響断面積、全長四百……いえ、五百メートルを超えています!」
ルシアンの声が鋭く張り詰めた。
「五百メートルだって!? そんなデカい生き物が、こんな毒だらけの海の底にいるってのかい!?」
リンが思わずコンソールへ身を乗り出す。
前方の超高圧強化ガラスの外側、濃密な暗黒の闇の奥から、無数の青白い燐光が浮かび上がってきた。
それは星空ではない。
百を超える、おぞましい光を宿した複眼の群れだった。暗黒の海水が巨大なうねりを上げて渦を巻き、泥濘の中からその巨躯が姿を現す。
黒い節足動物を思わせる幾重もの外殻甲板。百対を超える異形の遊泳脚と、先端が鋭利な棘と化した無数の触手。
頭部には、潜航艇の全幅を優に上回る、三つ又に裂けた凶悪な大顎門。
死の海メア・アビスの最深部、酸性大海溝に君臨する古代の覇者――
『深淵の百足鯨』。
かつて帝国が魔大陸を目指して派遣した数千隻の調査船団を、ただの一隻も帰還させずに海底の藻屑へと変えてきた、生ける絶対災厄の怪物だった。
耳をつんざく咆哮などではない。
深海の超重圧そのものが変調をきたし、艦橋に満ちる空気と人間の内臓を直接鷲掴みにして揺さぶるような、超低周波の破壊的振動が艇内を激震させた。
百足鯨は無数の脚を蠢かせ、濁った酸の奔流を巻き上げながら、黒金の巨鯨――ハイネマン・リバースを丸呑みにせんと、真っ直ぐに突進を開始した。
「全区画、耐衝撃姿勢! 前方より巨大質量、急速接近ッ!」
ルシアンの叫びとともに、深海の密閉された鉄の棺の中で、生き残りを賭けた極限の深海魔導戦の幕が切って落とされた。
(第二節へ続く)




