第四十話:『耐食潜航艇ハイネマン・リバース』 第四節:白銀の決戦装束
夜明け前の第零号廃ドックは、潮の満ちる音とともに静まり返っていた。
外殻を叩き続けていた数千の槌音は止み、溶接トーチの青い火花も消えている。巨大な渠の底に横たわる『耐食潜航艇ハイネマン・リバース』は、墨を流したような深海黒金の耐食装甲をまとい、幾重もの魔導リベットが鈍く光を弾いていた。追加された外殻装甲板の継ぎ目には、蒼銀オリハルコンの微粒子を溶かし込んだシール材が美しく走り、過酷な酸性ヘドロと高圧原水を完全に弾き返す準備を整えている。
「……全区画の耐圧試験、クリア。マナ循環バイパスの同調率、98.7パーセント。……完璧です」
キャットウォークの手すりに寄りかかり、ルシアンが右眼のアナライザー・モノクルの数理格子を解除した。その左耳には、市場で手に入れた『深紺の魔力貯蔵ピアス』が、暗がりの中で静かに瞬いている。
隣に立つリンは、腰部背面からしなやかに伸びる多節の『緋金剛・尾龍刃』の先端を軽く指先で撫で回し、右耳の琥珀ピアスを揺らしながら喉を鳴らした。
「へっ、これなら海の底だろうが魔大陸の氷山だろうが、真っ二つにカチ割って進めそうだね」
「ふふ、リンさん、しっぽが嬉しそうに揺れていますよ」
二人の背後から、鈴を転がすような声が届いた。
振り返ったルシアンとリンの視線を受け止めたのは、すでに『聖女の戦闘用フィールドドレス』へと身を包んだフィリアだった。白金のハイネックチュニックと多層装甲タラールスカート、そして下肢を包む防風戦闘レギンス。6基の『リリィ・ファンネル』は宙を舞うことなく、背面の腰帯スロットへと整然と格納され、白銀と翠玉の美しい花弁の帯飾りのように少女の腰元を飾っていた。
そこにはかつて大聖堂の地下で震えていた生贄の弱々しさはなく、前線で仲間を護り抜く覚覚悟に満ちた、凛々しくもあたたかな笑みがあった。
「フィリア、様……」
ルシアンが思わず息を呑むと、フィリアは少し照れくさそうにはにかんだ。
「女将さんたち、本当に凄いです。あんなに軽くて、身体の芯まであたたかい服……生まれて初めて着ました」
「似合ってるよ、フィリア! どっかの堅物学者が着てる気取ったコートより、百倍サマになってるさ!」
リンが笑いながらフィリアの肩を抱いた、その時だった。
詰所の重厚な引き戸が、静かに開いた。
ドックの足場に腰を下ろしてパイプ煙草を燻らせていた老鍛冶師ムラサメが、顔を上げた。
船大工たち、魔導技師たち、そして仕立てギルドの女将たちが、一斉に作業の手を止め、詰所の出口へと視線を注ぐ。
朝靄の混じる薄明の光の中を、一人の少女が歩み出てきた。
全員の呼吸が、止まった。
白銀の髪は高く、しなやかなポニーテールに束ねられ、波頭の幾何学紋様を織り込んだ深青のリボンが夜風に誇らしく揺れている。
肩と胸元を覆うのは、ムラサメが魂を削って叩き上げた、眩いばかりの『蒼銀オリハルコン胸甲』。純白の生地に深紺の波紋装甲を重ねた決戦用フィールド・ドレスアーマーは、前後に大胆なスリットプリーツが刻まれ、あらゆる抜刀術の踏み込みを邪魔しない。
スカートの奥から覗くのは、無骨な引き締まりを見せる純白の強化戦闘ショーツと、太ももをきつく拘束する黒革の脚部ホルスターハーネス。足元には、編み上げの黒革戦闘ブーツに、蒼銀の脛当てが鈍い輝きを放っている。
そして首元には。
「勇者の聖痕」を覆い隠すように巻かれていたのは、黒革と白銀のチョーカー。
その中央に揺れているのは、かつて初代聖女クラリスが胸元に抱いていた光の残影――七色に光を屈折させ、淡い燐光を放つ『星彩の誓石』のレプリカペンダントだった。
誰かの身代わりの偶像でもない。
離宮に閉じ込められた悲劇の皇女でもない。自らの意志で泥に塗れ、仲間たちと共に死線を超えてきた「星の勇者アリア」の、真なる姿だった。
腰の帯に差されているのは、白藍のグラデーションに銀の装飾が踊る鞘
――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア 真打』。
「……どうかしら?」
アリアは照れ隠しに軽く顎を上げ、仲間たちへ笑ってみせた。その菫色の瞳には、迷いの欠片も宿っていない。
「……っ、最高だよ、アリア!」
リンが真っ先に八重歯を見せて破顔し、親指を突き出した。
「めちゃくちゃ強そうだし、とびっきり格好いい! これならどんな怪物だろうと、一刀両断にぶった斬れるね!」
「ええ……本当に、お綺麗です、アリア様」
フィリアが胸元で両手を合わせ、瞳を潤ませて駆け寄る。
ルシアンは珍しく言葉を失っていたが、やがて眼鏡を押し上げるようにアナライザーの縁に指を添え、満足げに口元を緩めた。
「……数理的にも、装甲配置の空力・重量配分は極限の理想値に達しています。これ以上の『勇者の正装』は、世界のどこを探しても存在し得ないでしょう」
その瞬間、隣から痛烈な衝撃がルシアンの脇腹に突き刺さった。
「ぐふっ……!? り、リン……!?」
見ると、リンがわずかに頬を膨らませ、冷ややかなジト目を青年に向けていた。肘をルシアンの脇腹にめり込ませたまま、小声で不満そうに呟く。
「……ふーん? さっきアタシのピアス姿を褒めた時より、ずいぶん饒舌じゃないかい、理屈屋先生?」
「め、滅相もない! 僕は純粋に力学的な機能美を数理的に評価しただけで――」
「はいはい、口先ばっかりのインテリはこれだから困るね!」
二人のいつもの掛け合いに、アリアとフィリアが顔を見合わせて吹き出した。
「おいおい、小娘」
ドックの足場から飛び降りてきたムラサメが、灰色の煙を吐き出しながら近づいてきた。
老鍛冶師の目は赤く充血し、その太い指先には新たな火傷の痕がいくつも刻まれている。
老人はアリアの腰の刀を顎でしゃくった。
「見せてみな。その刃に、お前の血が通っているかどうかをな」
アリアは無言で頷くと、右手を柄へと滑らせた。円形銀鍔の星彩紋様に指が触れる。
親指で、ハバキをわずかに弾く。
チィン――!
透徹な金属音が、静まり返ったドック全域の空気を切り裂いた。
アリアの指先が閃光のように動き、白銀の刀身が一気に抜き放たれる。
蒼銀オリハルコンを芯金に折り込んで鍛え直された刃金から、淡青の波紋が奔流となって溢れ出し、アリアの掌の『蒼血』と直結した刀身が歓喜するように蒼い燐光を撒き散らす。
少女は息を吐きながら、手首を滑らかに返した。
神刀が宙で透徹な残光の円弧を描き、一切の抵抗なく大気を切り裂く。
流麗な遠心力に乗った刀身が、アリアの指先でくるりと鮮やかに反転した。
視線を一切落とすことなく、切っ先は寸分の狂いもなく鞘口へと吸い込まれ――
カチィンッ――!
水面を叩く雫のように澄み渡った納刀音が、廃ドックの底に鋭く木霊した。完璧な回転納刀。
水が弧を描き、円を滑らせて万物を断つ――ムラサメの教えを完璧に体現した一閃だった。
「……合格だ」
ムラサメが短く呟き、満足そうに歯を見せて笑った。
「水は円を描き、弧を滑らせて万物を断つ。……行け、アリア。このメルカトリアのドックで生まれた『真の刃』で、あの凍てついた災厄を真っ二つに斬り拓いてこい!」
「ええ! 行ってくるわ、ムラサメ!」
それと同時に、ドックを取り囲んでいた数千の職人、船乗り、仕立て屋の女将たちから、大地を揺るがすような怒号と歓声が沸き上がった。
「頼んだぞ、皇女様!」
「本物の海路を、俺たちに持って帰ってきてくれ!」
「絶対に生きて帰るんだよ、あんたたち!」
大船商ゴルバが、最前列で葉巻を咥えながら右腕を力強く突き上げた。
四人は振り返り、街の人々へ向けて深く、誇らしげに一礼した。
リンは尾龍刃のロックをカチリと確認し、ルシアンはコートの胸元を整え、フィリアは指輪にそっと触れ、アリアはポニーテールの藍色リボンをキュッと結び直す。
四人は背を向け、黒金の巨躯――『耐食潜航艇ハイネマン・リバース』のタラップを駆け上がり、上部ハッチをくぐった。
▼▼▼
重厚な気密ハッチが、油圧シリンダーの音とともに密閉された。
操縦席のコンソールに滑り込んだルシアンが、アストロラーベ・ワンドを中央の魔導ソケットへ突き刺す。展開された青い数理格子が、艦内全域のマナ回路を一瞬で掌握した。
フィリアが両手を組み、リリィ・ファンネルを艦内コアへと同期させ、艇全体を包む『無垢なるピラミッド結界』の防護膜を二重に張り巡らせる。
「メイン推進機関、点火! 魔導スプリングのドラグ機構、全開!」
低く唸るような重低音が艦底から響き渡り、可変スクリューが回転を始めた。
外水門が轟音とともに上方へと持ち上がる。
ドック内へと、外海から逆流してきたメア・アビスの濁流が一気に雪崩れ込んできた。
ドス黒く濁り、猛烈な酸の蒸気を噴き上げる死の海原。
普通の外洋船ならば一瞬で船底を溶かされる劇毒の奔流を、ハイネマン・リバースの黒金装甲は何事もなかったかのように弾き返した。
艦橋の中央、指令シートに立ったアリアが、腰の真打の柄に手を添え、艦内マイクへと透徹な声を響かせた。
「――全機関、両舷全速! 目標、死の海メア・アビス!」
「了解! 深度設定、3000! 潜航開始ッ!」
ルシアンがレバーを一気に引き倒す。
黒金の巨鯨は白い泡沫を激しく噴き上げながら艦首を下げ、光の届かない暗黒の深海、死の海メア・アビスの底へと、滑らかに吸い込まれていった。
欺瞞の都を均す魔王の待つ、最果ての魔大陸へ向けて。
新たな時代の勇者たちの航海が、今、始まった。
(第四十話 完 / 第四十一話へ続く)
これで全員の最終局面装備が整いました!
ここから先は一気に物語の結びまで駆け抜けることになります。
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