第四十話:『耐食潜航艇ハイネマン・リバース』 第三節:コキュートス・ソリチュード
メルカトリアの夜を包む潮風と熱狂から、遥か数千キロメートルの彼方。
腐食した海嘯と毒気の満ちる海を隔てた最果て――魔大陸の中央にそびえ立つ魔王城ネクロ・アビスは、猛烈な吹雪の中に沈黙していた。
天を突く尖塔群は黒氷に閉ざされ、吹き荒れる暴風雪が城壁を絶え間なく削り落としている。
その最深部、広大な玉座の間。
冷気で白く凍りついた黒曜石の床の向こう、一段高くなった漆黒の玉座に、一人の青年が腰を下ろしていた。 肉体年齢20歳のまま時を凍結された青年、魔王レン。
身に纏うのは、禍々しい黒金の装甲と真紅の裏地を持つ裂けたマント。
だが、その面貌には魔王と呼ばれる者にふさわしい凶虐な昂ぶりも、敵を呪う憎悪の歪みすらも存在しない。 感情の起伏を示す表情筋の動きが完全に消失した、蒼白で冷え切った「死人の能面」。
ただ、黒い瞳の深淵だけが、何者も映さない虚無を宿していた。
玉座の足元に、三つの影が跪いていた。
甲殻の鎧を纏う巨躯の戦士・潮殻族カルノス、骨の面を被り無数の呪符を垂らした白骨族バウル、そして青黒い鱗と長いヒレを持つ淵鱗族ナディア。
西大陸の全域を震撼させた六大部族長たちである。
「……報告いたします、魔王様」
カルノスが低く重厚な声を響かせた。
「帝都アルシリアの中央要塞および門閥貴族の拠点の解体は、完全に終了いたしました。残存する教皇庁の軍事施設もすべて撤去され、更地化の予定線は計画通り西の境界壁へと達しております」
「避難民の居住区、および食料生産区画には、命じられた通り一切の損害を与えておりません」
ナディアが冷徹に告げる。
レンの首筋から胸元にかけて、黒い皮膚の下で真紅の血管のような光の脈動が走っていた。
青年は視線を動かすことすらせず、掠れた低い声で、短く返した。
「……そうか。作業を継続しろ」
歓喜も怒りもない。 大国の滅亡も、数千年に及ぶ支配構造の崩壊も、彼にとってはただ工程表の項目を一つ塗りつぶした土木作業の記録に過ぎなかった。
「次の工程だ。東部防潮壁の残滓を均し、運河のせき止めをすべて外せ。……邪魔が入らない限り、無駄な破壊はするな」
「御意」
部族長たちは深々と頭を垂れ、音もなく退室していった。
重々しい扉が閉ざされ、玉座の間は再び、絶対零度の静寂へと呑み込まれる。
レンは一人、玉座の肘掛けに置いた右手をゆっくりと持ち上げた。 指先を覆うのは、かつてエルが作ってくれた手甲が生体金属化し、鋭利な鉤爪へと変異した『禍刻の十指魔手甲』。
その十指から、目に見えない無数の魔導糸が天井の暗闇へと伸びている。
ギィ、と微かな軋み音を立てて、玉座の背後にそびえ立つものが青白い燐光を放った。
そこにあったのは、天井に届かんばかりの巨大な『永久氷晶』だった。
透き通るような青氷の奥深くに、永遠に時を止められた一人の少女が眠っている。
雪のように白い髪、長い睫毛を伏せた穏やかな顔立ち。
かつて帝国と教会に奇跡の力を搾取され、最期にレンの命を救うために自らの全生命を燃やし尽くした初代聖女――クラリス・フォン・シルフィードの遺骸だった。
レンは立ち上がり、足音もなく氷の前へと歩み寄った。 胸元の装甲の中央、肉体と一体化するように埋め込まれた『真紅の魔核』が、ドクン、と熱を帯びて脈打つ。
それは悪意の黒ではなく、クレアの遺した愛と祈りが、魔王の残滓を清らかな紅へと昇華させて抑え込んだ、哀しいほど透き通った結晶だった。
黒い鉤爪が、冷たい氷の表面に触れる。
「……もうすぐだ、クレア」
能面の唇から、凍てつく吐息が零れ落ちる。
「お前を閉じ込めていた都は、もうない。お前を食い物にして笑っていた奴らも、もう誰もいない。……この大地を覆うくだらない欺瞞の壁を、全部平らに均してやる」
青年は腰の脇に手をやった。 漆黒と真紅の凶悪な装甲の中で、そこだけが異質な温もりを留めていた。 擦り切れ、泥と油に染みた、小さな古びた革ポーチ。
震える鉤爪がポーチの留め金を外し、中から一握りの品を取り出す。
それは、不器用に削り出された、小さな木製のルアーだった。
表面には、白銀の髪の少女が笑いながら描いてくれた、愛らしい丸い瞳がかすかに残っている。
『レン、これ、上手に描けたよ!』
耳の奥に、100年前の木漏れ日の記憶が蘇る。
川のせせらぎ、パチパチと爆ぜる焚き火の音。 釣ったばかりの魚を焼き、骨をうまく外せなくて涙目になっていたクレア。 横から魚を奪い取って身を崩し、
「あーもう! 魚の骨なんかより精密機械のほうが百倍簡単よ!」
と喚いていたエル。
「がっはっは! 姉ちゃん、飯の食い方ぐれえレンに教わんな!」
と大盾を叩いて豪快に笑っていたダンカン。
誰もが泥に塗れ、その日の飯と、明日の命を繋ぐことだけに必死だった。
国家の英雄でも、救世主でもなかった。 ただ、過酷な水辺で生き延びるために竿を握り、笑い合っていただけの、ちっぽけな四人。
『魔王を倒したらさ、教会を捨てて、二人で遠い海へ逃げようね』
焚き火の光を浴びながら、七色に輝くペンダントを握りしめ、恥ずかしそうに微笑んでいた少女の約束。 あの夜、すべては奪われた。
祝勝の晩餐会という名の罠。 仲間を逃がすため、愛する工房ごと自爆したエルの最後の笑顔。
無数の刃を受け止め、大盾と共に仁王立ちのまま事切れたダンカンの背中。
そして、20歳の誕生日を迎えた夜、致命傷を負ったレンの胸に魔核を押し込み、冷たくなっていったクレアのぬくもり。
(――お前たちに見せる海に、欺瞞の都はいらない)
レンは木製ルアーを強く握りしめた。
鉤爪が軋み、火花が散る。 その時だった。
カラン、と高い澄んだ音が、絶対零度の玉座の間に響き渡った。
レンが息を呑み、視線を上げる。 氷晶の中――100年間、ピクリとも動くことのなかったクレアの閉ざされた右目から、一筋の光の粒が零れ落ちていた。
頬を伝い、氷の結晶となって足元へと落ちる光の涙。
ドクンッ……!
レンの胸の真紅の魔核が、かつてない激痛とともに大きく脈動した。
それは侵入者を拒絶する魔導の警告ではない。
遥か西の果て、死の海メア・アビスの境界から押し寄せてくる、微かな、だが決して無視することのできない「波頭の気配」だった。
かつてクレアが持っていた七色の光、星彩の煌めき。 そして、エルが夢見ていた、あらゆる水圧を切り裂く不屈の歯車の回転。
「……何が、来る」
レンの能面の奥で、感情を失っていたはずの黒い瞳が、わずかに戦慄を帯びて収縮した。 胸の奥底で、固く凍りついていたはずの「何か」が、微かな軋みを上げて音を立てていた。
(第四節へ続く)




