第四十話:『耐食潜航艇ハイネマン・リバース』 第二節:外套と打撃具
地下船渠の重油と鉄粉の熱気を抜け出し、昇降機で地上へ上がると、夜のメルカトリアは昼間とは打って変わった賑わいを取り戻していた。
帝都崩壊の凶報がもたらした恐慌は、広場でのアリアの演説と十人ギルド評議会の舵切りによって、熱狂的な軍需景気へと反転していた。
運河沿いの石畳には赤や黄色のカンテラが無数に灯り、屋台からは香辛料を利かせた焼き魚や煮込み肉の香ばしい煙が立ち上っている。
「ふう……! やっぱり夜風は気持ちいいねぇ!」
リンは夜空を見上げ、伸びをしながら赤銅色の短髪をくしゃりと掻いた。
その引き締まった腰回りには、ムラサメから渡されたばかりの『炎紋の緋金胸甲』と、腰部背面の接続フレームがすでに装着されている。
まだ本格的な慣らし前とはいえ、武骨な黒鉄と朱色の炎紋様が、彼女の引き締まった腹筋と健康的な肌に恐ろしいほど馴染んでいた。
「油断しないでください。いくら街の空気が落ち着いたとはいえ、物資を巡る小競り合いは多発しています。僕たちの目的はあくまで、ハイネマン・リバースの潜航用バリアに必要な高純度マナ触媒の確保です」
隣を歩くルシアンは、仕立て女将たちから手渡されたばかりの『アストラル・フィールドコート』を纏っていた。
スレートブラックの硬質な布地に、歩くたび翻る深紅のシルク裏地。
胸元のサファイアブローチと真鍮の歯車ボタンが、青年の怜悧な顔立ちに学者としての気品と前線の指揮官たる重厚さを与えている。
「はいはい、分かってるよ理屈屋先生。……それにしてもさ、アンタ」
リンがふと足を止め、ルシアンをしげしげと下から上まで眺め回した。
「服を着替えると、案外見られる男になるじゃないかい。帝立アカデミーの若様ってのも伊達じゃないね」
「……揶揄うのはやめていただきたい。これは外洋の過酷な寒冷・酸性環境下で体温と魔力回路を保護するための、純粋に機能的な作業着です」
ルシアンは居心地悪そうに襟元を直したが、その耳朶がわずかに赤らんでいるのを、夜闇は隠しきれていなかった。
「そういうリンこそ、少しは淑やかになったかと思えば、相変わらず凶悪な鉄塊を身体中にぶら下げていますね」
「へっ、アタシにフリルやレースなんて似合うわけないだろ! このゴツさが落ち着くんだよ」
リンは八重歯を剥き出しにして笑うと、屋台から漂う煙に鼻をひくつかせた。
「……あー、それにしても腹減ったな! 昼からずっと鉄板運びで力仕事ばっかりだったからさ!」
「まったく……胃袋の容積と運動量がまったく釣り合っていませんね」
ルシアンは小さく溜息をつきながらも、迷いなく銀貨を取り出し、露店の親父へ差し出した。
串に刺された肉厚な白身魚の炙り焼きが一本、香ばしいタレの匂いを立てて手渡される。
「ほら、一口食べなさい。骨はすでに抜かれているようですから、喉に詰まらせる心配はありません」
「おっ、気が利くね! ……ん〜〜っ、うまい!」
リンは串焼きを受け取るや否や、ぱくりと豪快に齧り付いた。
脂の乗った身を咀嚼しながら、幸福そうに目を細める。
すると、少女は悪戯っぽく破顔し、自分が齧ったばかりの串をルシアンの口元へと無防備に突き出した。
「ほら、アンタも一口食べなよ! 驚くほど身がホクホクしてて美味いからさ!」
「えっ……!? い、いえ、僕は結構です。それは貴女が――」
「いいから! ほら、口開けな!」
突き出された熱々の魚の身に押し切られ、ルシアンは観念して小さく口をつけた。
甘辛いタレと香ばしい白身の旨味が広がる。
「……確かに、美味ですね」
「でしょ! ……あ」
リンは自分が齧ったすぐ隣の跡を見て、不意に何かに気づいたように固まった。
二人の唇が触れた位置の近さにハッとしたのか、琥珀色の瞳を白黒させ、見る見るうちに耳の先まで真っ赤に染め上げていく。
「な、なによ……! 変な顔して食べないでよ!」
「べ、別に変な顔などしていません! 貴女が無理に食べさせたのでしょう!」
互いに視線を明後日の方向へと逸らし、気まずい沈黙が流れる。
その時、路地の向こうから資材を運ぶ荷馬車の一団が、怒号とともに群衆を掻き分けて突っ込んできた。
「危ない!」
ルシアンが咄嗟に手を伸ばし、リンの手首を強く引き寄せた。
勢い余って、リンの身体がルシアンの胸元へと飛び込む。
スレートブラックのコート越しに伝わる、青年の確かな体温と、トクンと跳ねた心臓の鼓動。
「っと……! あ、ありがと……」
見上げるリンの顔と、見下ろすルシアンの顔の距離は、わずか十数センチしかなかった。
普段は前衛として誰よりも前を走り、敵の打撃を真正面から受けて立つ少女が、初めて見せた頼りなげな瞳。
ルシアンは喉を鳴らし、繋いだままの手首から、そっと指先を絡めるように握り直した。
「……はぐれると、非効率ですから。触媒の店に着くまで、このまま歩きますよ」
「……ん。アンタがそう言うなら、まあ、離してやんないこともないけどさ」
繋がれた手のひらから、じんわりと熱が溶け合っていく。
照れ隠しに俯きながら歩く二人の足が、ふと、路地の片隅に立つ貴金属と魔導鉱石の露店の前で止まった。
がらくた同然の古道具に混ざって、ビロードの小箱に収められた対の装身具が、街灯の光を吸い込んで静かに瞬いていた。
雫型の宝石をあしらった、二つの魔導ピアス。
一方は、夜明けの風のように透き通った黄金色――『琥珀』。
もう一方は、深海の底を切り取ったかのような深い藍色――『深紺サファイア』。
「……ほう」
ルシアンの足が完全に止まった。
モノクルを展開し、宝石の内部構造を瞬時に走査する。
「なんだい? アンタ、女物のアクセサリーなんかに見惚れちゃってさ。まさかアタシに似合うとでも思ってんじゃないだろうね」
リンが繋いだ手を微かに揺らしながらからかったが、ルシアンの表情は真剣そのものだった。
「いえ、装飾品としての価値ではありません。この琥珀は、極めて稀少な風属性の天然魔導結晶……周囲の大気摩擦を中和する減衰場を常時展開しています。そしてこちらの深紺石は、アカデミーの特級規格に匹敵するマナ圧縮貯蔵核だ」
ルシアンは店主の老人に迷わず金貨を弾き、小箱を買い取ると、琥珀のピアスを取り上げてリンの顔の横へと掲げた。
「これを右耳につけなさい。貴女の突進時の大気抵抗を減衰させ、踏み込みの初速をコンマ二秒短縮できます。そして僕がこちらの深紺を左耳につければ、四属性多重詠唱時のマナ枯渇を完全に予防できる。……極めて合理的かつ実利的な装備調達です」
「……へっ」
リンは呆れたように笑ったが、その瞳には嬉しさが隠しきれずに滲んでいた。
「相変わらず、屁理屈ばっかり並べ立ててさ! プレゼントする時くらい、『似合うから買ってきた』って言えないのかい、この堅物は!」
「事実にない感情論は数理に含まれません」
「はいはい! ほら、手袋しててつけにくいから、アンタがつけなよ!」
リンがそっと顔を傾け、無防備な右の耳朶を差し出してくる。
ルシアンは息を呑み、革手袋を口で引き抜いた。
素手の指先が、リンの熱い耳朶にそっと触れる。
ひやりとした指先と、少女の燃えるような体温。
ピアスの針を通すため、ルシアンの顔がぐっと近づいた。
青年の吐息が、リンの首筋とショートカットのうなじを微かに撫でる。
(ち、近すぎるってば……!)
リンは喉元を締め付けられるような緊張に襲われ、ギュッと拳を握りしめた。
ルシアンの真剣な横顔、切れ長の瞳、整った鼻梁。いつも小難しい数式ばかり呟いている男の顔が、視界のすべてを埋め尽くしている。
カチリ、と小さな金属音が響き、留め具が収まった。
琥珀の雫が、リンの赤銅色の髪の隙間で誇らしげに揺れる。
ルシアンはゆっくりと身体を引き、自らの左耳に深紺のピアスを滑り込ませると、細めた青い瞳を真っ直ぐに向けた。
「……計算通りです。驚くほど、貴女によく似合っている」
「っ……!」
不意を突かれたリンは、顔から湯気が出そうなほど赤くなり、乱暴に自分の頬を両手で叩いた。
「な、なんだい急に……! そういう嘘は心臓に悪いからやめなよ、もう!」
「嘘ではありません。数理的な事実を述べたまでです」
二人は逃げるように市場を後にし、触媒の瓶を抱えてドックの船渠へと戻っていった。
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第零号廃ドックの作業場では、潜航艇の主機関の冷却が完了しつつあった。
黒金の巨躯の足元で、ムラサメが腕組みをして待っていた。
「遅かったじゃねえか、二人とも。……リンの小娘、仕上がったぞ」
作業台の上に置かれていたのは、異様な威圧感を放つ武具だった。
黒鉄と緋金剛で鍛え上げられた、多節構造の長大な鋼鉄の尾――『緋金剛・尾龍刃』。
そして、リンの両手両足を覆う『砕霊甲』と『飛燕具足』の最終調整パーツ。
「すげえ……! これがアタシの新しい武器……!」
リンは胸甲の背面スロットに、自らの手で尾龍刃の基部をガチリと噛み合わせた。
神経接続シリンダーが燐光を放ち、リンの背中から生えたかのように、緋金の尾刃が空中で滑らかにうねる。
先端の大型尾刃が、まるで意志を持つ蛇のように鋭く旋回した。
「どうだい、ルシアン! 気功を流し込んだだけで、手足と同じように動くよ!」
ブン、と尾刃を振るい、ルシアンの鼻先数センチを掠めさせて見せる。
「危ないでしょうが! 振り回さないでください!」
ルシアンが声を荒らげるが、リンは愉快そうにケラケラと笑った。
「おっと、すまないね! でも、これなら死角からの奇襲も、空中の姿勢制御も思いのままだ! ……足の具足のほうも、早く調整しちまおうよ」
リンが作業台に腰掛け、片足を無防備にルシアンの前へと差し出した。
『飛燕具足』の踵部スラスターとリコイルキャンセラーの歯車。
ルシアンは膝をつき、真鍮のスパナを手に取ると、リンの足首を支えながら精密な調律を開始した。
カチ、カチ、と歯車が噛み合う小気味よい音が響く。
至近距離で向き合う二人の間に、ドックの喧騒を忘れるような静けさが降りていた。
「ルシアン」
「……なんですか」
「アタシ、死なないよ。……アンタも、絶対に死なせない」
ルシアンの手が、わずかに止まった。
見上げると、リンが真剣な面持ちで、右耳の琥珀ピアスを指先で弄びながら見つめ返していた。
「アタシのこの拳も、新しくもらった尻尾もさ。世界を救うためなんかじゃない。……アリアの夢を支えて、アンタの計算を守り抜いて、みんなであの本当の海を見るために使うんだ」
ルシアンは静かにスパナを回し、最後のボルトを締め切った。
立ち上がり、コートの埃を払う。
その周囲に、腰のホルダーから射出された四基の真鍮環――『アストラル・バインダー』が自律浮遊し、青い数理結界の軌道を描いて静かに回転し始めた。
左耳の深紺ピアスが、青年の瞳と同じ冷徹で、かつてなく温かな光を湛えている。
「……ええ、承知しています。貴女の猪突猛進が描く無謀な放物線は、すべて僕の数理が軌道修正してみせましょう。背中は預けましたよ、リン」
「応よ! まかせときな!」
拳と掌を打ち鳴らし、獰猛に笑う格闘家。
その背後で、ハイネマン・リバースの巨大な主機関が、低く重厚な始動音を轟かせ始めた。
だが――この温かな決意の光が満ちるメルカトリアの遥か北東、死の海を越えた最果ての地には、絶対零度の孤独が沈黙を守っていた。
ルシアン
リン
(第三節へ続く)
今回はルシアンとリン!
最終局面に向けて二人もパワーアップです。
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