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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第四十一話:『死の海メア・アビス渡海』 第三節:黒氷の汀、最果ての魔大陸

 海底三千メートルから噴き上がった熱水サージは、常識的な物理法則を完全に蹂躙していた。

 濁り狂う過熱水流が海溝の壁面を削り取り、巨大な螺旋の渦となって潜航艇の艦底を押し上げる。

 通常の船舶であれば、外殻を雑巾のように絞り上げられて粉砕される暴力的な潮流。

 だが、ルシアンとリンが同時に全開位置へと叩き込んだ『魔導スプリング・ドラグ機構』が、その狂乱のエネルギーを寸分違わず手綱に収めていた。

 内部の調律歯車が摩擦熱を受け流し、生体腱ダンパーが圧縮と伸長を高速で繰り返す。

 直撃する水流の質量を力任せに受け止めず、ドラグを滑らせて推進軸のベクトルへとすり替える。

 百年前、エレノア・ハイネマンが「どんな激流の海でも、魚のように笑って泳ぎ切るため」に遺した工学の魂が、濁流の芯を完璧に捉えていた。


「深度二千! 千五百、千……! 浮上速度、なおも加速中!」


 ルシアンの叫びが、激しい振動に包まれる艦橋に響き渡る。右眼のアナライザー・モノクルが青い数理式を激しく演算し、左耳の深紺ピアスが淡い燐光を撒き散らしていた。


「フィリア様、艦首バリアの角度を上方に絞ってください! 浮上時の水圧落差によるキャビテーションを相殺します!」


「は、はいっ……! 『八華光嶺結界(オクタヘドロン・サンクチュアリ)』、楔形(くさびがた)へ収束!」


 フィリアが右手中指の翠玉環へ全精神を注ぎ込む。艦首を包む正八面体のプリズム光膜が鋭利な円錐形へと変形し、押し寄せる海水を左右へ滑らかに切り裂く水先案内となった。


「深度五百、三百、百……水面、来ますッ!」


 猛烈な勢いで減圧していく原水の塊を突き破り、耐食潜航艇ハイネマン・リバースが海面へと躍り出た。天蓋の割れ目から降り注ぐ冷気の中、数千トンの海水が一気に四方へと弾け飛び、巨大な白煙の柱を海上に打ち上げる。

 黒金の巨鯨は高く波頭を踏み砕き、濃密な泡沫を撒き散らしながら着水した。

 艦橋を揺らし続けていた激震が、ふっと消え去った。残されたのは、艦体を叩く冷たい風の音と、静まり返った気密室の静寂だけだった。


「……浮上、完了」


 ルシアンが深く息を吐き出し、額に張り付いた濃紺の髪を指先で払った。


「主機関の熱量、正常値に復帰。……海流の温度影響により、沿岸の外気温は摂氏五度。大気成分に致死性の毒素は検知されません」


「はは……っ! やった、やり切ったよあたしたち!」


 リンが思わず副操舵席のシートを叩き、八重歯を剥き出しにして快哉を叫んだ。

 背面の『緋金剛・尾龍刃』が、主の歓喜をそのまま表すようにピンと跳ね上がっている。


「ええ……! 本当に、あの死の海を渡り切れたんですね……!」


 フィリアも胸元に手を当て、紅潮した頬に満面の笑みを咲かせた。

 だが、司令席に立つアリアの視線は、展望風防の向こうに広がる景色に釘付けになっていた。


「……外へ出ましょう。自分たちの目で確かめるのよ」


 アリアの声に促され、四人は中央の昇降タラップを駆け上がり、上部気密ハッチの手動ハンドルを回した。減圧弁から白い蒸気が吹き上がり、重厚なハッチが外側へと開かれる。

 瞬間、吹き込んできたのは、冷たい潮の匂いと、肌をひやりと撫でる冷涼な海風だった。

 四人は潜航艇の外甲板へと降り立ち、眼前に広がる光景を見渡した。

 そこは、人類のいかなる探検家も足を踏み入れたことのない、世界の最果てだった。

 頭上を覆うのは、重苦しく垂れ込める鉛色の暗雲。

 沿岸部こそ海水温の余熱でわずかに寒気が和らいでいるものの、沖合から吹き付ける風の奥には、大陸深部から漂う絶対零度の気配が孕まれていた。

 波打ち際に広がっていたのは、白い砂浜でも緑の草原でもない。黒く濁った原水が幾重にも凍りつき、鋭利な刃物のように重なり合って海を侵食する、無辺の黒氷地帯――『魔大陸・黒氷の汀』。


 寄せては返す波すらも、黒氷の縁に触れた瞬間にシャーベット状に凍りつき、擦れ合って乾いた音を立てている。帝国の欺瞞に満ちた華美な宮殿も、泥濘に塗れたスラムの温もりすらも存在しない、完全な静寂と拒絶の世界。


「これが……魔大陸……」


 リンが腕を組み、白い息を吐きながら呟いた。


「ええ。百年前、初代勇者たちが挑み、そしてすべてを奪われた因果の地です」


 ルシアンがスレートブラックのコートを風になびかせ、冷徹な目で地平線を見据える。

 その時、一陣の寒風が吹き抜け、前方の黒氷原を覆っていた白霧を吹き払った。

 四人の視線が、遥か数里の先へと吸い寄せられた。

 吹雪の裂け目、黒く凍てついた平原の最奥にそびえ立っていたのは、天蓋を突き刺すかのような異形の巨城だった。

 無数の尖塔が黒氷で覆われ、城壁からは血のように紅い光の筋が蜘蛛の巣のように大地へ這い出している。かつてエルが夢見た生活魔導具の循環設計図が、歪んだ形で要塞として巨大化した哀しき産物――魔王城ネクロ・アビス。

 その城の頂、凍てつく玉座の間で、今もあの青年が「死人の能面」を被り、一人きりで世界を更地にする作業を待っているのだ。

 アリアは、首元の黒革と蒼銀のチョーカー――『星彩の首輪(ステラ・チョーカー)』の中央に嵌められたレプリカ結晶を、指先でそっと確かめた。聖痕の痛みを和らげる七色の微光が、胸元で静かに瞬いている。

 白銀のポニーテールを海風になびかせながら、アリアは静かに、だが決して揺るがない決意を込めて告げた。


「行こう。……レンの待つ場所へ」


「応ッ!」


 リンが緋金剛の拳を打ち鳴らし、尾龍刃を鋭くしならせた。ルシアンがモノクルの光を宿し、フィリアが両手を胸の前で祈るように重ねる。

 凍てつく黒氷を踏みしめ、四つの足跡が最果ての大地へと刻まれていく。欺瞞の都を滅ぼした魔王と、誰も犠牲にしない未来を掴み取ろうとする新世代の勇者たち。

 その運命の邂逅に向けた、過酷なる試練の幕が今、上がろうとしていた。


挿絵(By みてみん)


(第四十一話 完 / 第四十二話へ続く)


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