第三十九話:『自由都市の盟約』 第四節:技師の眠る船渠
中央港湾広場の地鳴りのような熱狂を背に、四人は大船商ゴルバの先導で評議会タワーの地下荷物昇降機へと乗り込んだ。
油圧ピストンが軋み、昇降機は暗闇の中を垂直に降下していく。
地上から10メートル、30メートル、50メートル。
運河の水圧に耐える分厚い花崗岩の隔壁を幾重もすり抜け、やがて鈍い衝撃とともに停止した。
目の前に現れたのは、都市の最下層――海抜ゼロメートルを遥かに下回る、水没区画の入口だった。
「ここはメルカトリアが建設された最初期、100年以上前に使われていた旧運河ドックの最深部……『第零号廃ドック』だ」
ゴルバがカンテラを掲げ、苔むした湿った通路を歩き出す。
空気はひんやりと冷たく、潮水と重油、そして長い年月眠り続けた金属特有の錆の香りが混ざり合っていた。通路の突き当たりに立ち塞がっていたのは、厚さ1メートルを超す円形の耐圧鋳鉄隔壁。その中央には、帝国のいかなる魔導工学でも見たことのない、複雑極まる3重の歯車式回転錠が鎮座していた。
「100年前、帝国アカデミーを爆破して出奔したあの規格外の女――天才魔導技師エレノア・ハイネマンが、自らの全財産と特許の利権をこの街に預ける条件として、1つだけ残したのがこの船渠だ」
ゴルバは手にした真鍮のプレートを中央のスロットへ差し込み、首を振った。
「鍵は預かったが、ロックの暗号コードは『いつか私の真理を解き明かす者が現れたら開けさせなさい』と言い残されてな。俺たちじゃビクとも動かせねえ」
「なるほど。……100年前にアカデミーを嘲笑って出奔した、天才魔導技師エレノアの挑戦状というわけですね」
一歩前へ進み出たルシアンが、アストロラーベ・ワンドの先端を隔壁の中央へ押し当てた。右眼のアナライザー・モノクルが青い光芒を放ち、歯車内部の微細なマナ流動を瞬時にトレースしていく。
「常温マナ触媒理論に基づく、非線形因果幾何学ロック。既存のアカデミーの魔術式を強引に流し込めば、機構が即座に永久硬化して二度と解錠できなくなる拒絶構造ですが……現場の物理ベクトルを知る者には、あまりに明快な数理の道筋が用意されている」
ルシアンの指先が真鍮環を滑らかに3度反転させ、術式コードを書き換える。噛み合っていた歯車が次々と外れ、重厚な油圧シリンダーが溜め込まれていた圧縮空気を激しく噴き出した。
巨大な排水ポンプの駆動音が地鳴りのように立ち上がり、ドック内に満たされていた防腐海水が一気に引き潮となって吸い出されていく。濛々と立ち込める白い水煙。その霧を切り裂くように、アリアたちは巨大な地下ドックの通路へと足を踏み入れた。
現れたその巨躯に、全員が息を呑んだ。
「……これが、エレノアの遺産……」
水煙の晴れたドックの中心に横たわっていたのは、全長40メートルを超える、鈍い黒金の輝きを放つ流線型の巨艦だった。
帆もなければ、大砲の砲門も1つとして存在しない。過酷な水圧を滑らかにいなすために設計された、まるで深海魚のような継ぎ目のない特殊耐食合金の甲板。船尾には、巨大な魔導スプリングと連動する可変スクリューが鎮座している。
兵器ではない。誰かを殺し、支配するための戦艦などでは断じてない。酸性の猛毒ヘドロが渦巻き、超高圧の原水が押し寄せる死の海メア・アビスを突破し、「誰も見たことのない海」へ漕ぎ出すために作られた、人類至高の探査潜航艇。
船首の装甲板には、武骨な職人の筆跡で、その名が誇らしげに刻まれていた。――『耐食潜航艇 ハイネマン・リバース』。
「すげえ……! なんだいこのフネ、めちゃくちゃ頑丈そうじゃないかい!」
リンが手すりから身を乗り出し、目を輝かせる。フィリアも胸元で手を握りしめ、その美しいフォルムに圧倒されていた。
「生命を感じます……。この船は、海を恐れるのではなく、海を愛するために造られたんですね」
ドックの片隅、油と煤にまみれた作業台の上に、1つの木箱が置かれていた。ルシアンが近づき、積もった埃を払い除ける。箱の中には、使い古された魔導スパナ、ひび割れた予備のゴーグル、そして1冊の革表紙のノート――天才魔導技師エレノアの直筆設計手記が収められていた。
頁をめくるルシアンの手が、ある見開きで止まった。そこには、潜航艇の基本骨格図とともに、彼女自身の情熱がほとばしるような、乱暴ながらも誇り高い筆跡が記されていた。
『――天蓋の内側に引きこもって、机の上の数理だけで威張り腐ってる連中には一生分からないでしょうね。人が作った檻に閉じこもるために、あたしの魔導工学があるんじゃない。この船で、あの毒の海も、水圧の壁も、全部ぶち抜いてやる。誰も見たことがない本当の外の世界を、あの広大な海を、あたし自身の目で見てやるんだから!』
手記の文字をなぞりながら、ルシアンは細めた蒼の瞳を伏せ、微かに息を吐いた。
「……設計思想のすべてを理解しました。この潜航艇の推進機関と耐圧構造は、アカデミーの既存理論を完全に脱構築した独自の現場工学だ。……これなら行けます。メア・アビスの激流も、水深数千メートルの超高圧も、この船なら絶対に突破できる!」
「ルシアン様……!」
フィリアが歓喜の声を上げた瞬間、背後の通路から、無数の荒々しい足音と怒号が雪崩れ込んできた。
「おい、ここかッ!」
「特級耐蝕鋼のインゴット板、50枚持ってきたぞ!」
「魔導スプリングの予備シリンダーだ! どこへ積み込めばいい!」
カンテラと魔導溶接トーチを掲げた、メルカトリアの職人や技師たちが資材を抱えてドックの階段を駆け下りてきたのだ。先頭に立つ老鍛冶師が、ハイネマン・リバースの巨体を見上げ、驚きに目を見張りながら叫んだ。
「ひゃあ……! たまげた、100年前の化け物が生きてやがったか!」
老人はアリアを振り返り、ニッと歯を見せて笑った。
「おい皇女様! 資材も燃料も、街の倉庫にあるだけ全部引っ張ってきたぜ! 腕利きの船大工と技師も全員叩き起こしてきた! 突貫でこの潜航艇をピカピカの最高仕様に仕上げてやるよ!」
男たちが一斉に作業へ取りかかろうとした、その時だった。
「――どきな! むさ苦しい男どもは道をあけなさいッ!」
階段の上から響き渡ったのは、野太い怒声をも切り裂くような、甲高くて凄まじい威圧感を持った女たちの声だった。
現れたのは、腰に巻き尺や革裁ち鋏を下げ、色とりどりの極厚織物や生体魔導繊維の反物を肩に担いだ、メルカトリア繊維・仕立てギルドの肝っ玉母さんたちだった。
先頭に立つ筋骨逞しい仕立て屋の女将が、仁王立ちになってアリアたち四人をジロジロと睨みつける。
「な、なにさ、あんたたち……!?」
気圧されたリンが思わず後ずさると、女将は手にした巻き尺をピシッと鳴らし、呆れ果てたように腰に手を当てた。
「なにさ、じゃないよ! あんたたち、そんなボロボロの貫頭衣に油染みたマント一枚で、これから死の海を越えて極寒の魔大陸へ殴り込みに行こうってのかい!? 正気の沙汰じゃないね!」
「えっ、でも……」
戸惑うアリアの肩を、別のおばちゃんがすかさず掴み、身体の寸法を測り始める。
「でも、じゃないよ! みんなまだ年端もいかない若造じゃないか! そんな惨めな身なりで死地に送り出したら、メルカトリアの職人の名折れだよ! いいかい、船を直す間に、あんたたち四人の身体にピタリと合う最高の決戦装束を仕立ててやる! ほら、じっとおし!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! くすぐったいわ!」
暴れるアリアも、呆然とするルシアンも、目を回すフィリアも、手際の良いおばちゃんたちに次々と捕獲されていく。その様子を見ていた老鍛冶師や船大工たちが、ドック一面に響き渡る大笑いを上げた。
鉄を叩く槌音、青い溶接の火花、そして布を断つ鋏の音。絶望を越えて最果ての海へ挑む四人のために、自由都市メルカトリアのすべての技と誇りが、今、猛烈な勢いで結集し始めていた。
(第三十九話 完 / 第四十話へ続く)




