第三十九話:『自由都市の盟約』 第三節:波濤の決起
評議会タワーのバルコニーから見下ろすメルカトリア中央港湾広場は、今にも暴発しそうな熱気と怒号に煮えくり返っていた。
石畳を埋め尽くすのは、数千、数万の屈強な男たち。
腰に大槌を下げた造船鍛冶師、煤に塗れた魔導技師、手に銛や釣竿を握り締めた荒くれ者の船乗りやアングラーたちだった。
金満商人たちが大型船へ私財を積み込んで夜逃げを企てているという噂は、瞬く間に下層の職人街へと燃え広がり、手当たり次第にバリケードを破ろうとする群衆の怒号が地鳴りのように響いている。
「俺たちをこの街ごと見捨てる気か!」
「食料庫を開けろ! 船を出させろ!」
「魔王が来る前に、武器を寄越せ!」
防護盾を構えた私兵隊が押し戻そうとするが、怒り狂った数千の腕力の前には風前の灯火だった。帝国という後ろ盾を失い、恐怖に駆られた人間たちが、互いに食い合おうとする破滅の引き金。
「……ひどい、これじゃ……!」
フィリアが胸元のワンドを抱きしめ、悲痛な声を漏らす。
その隣で、リンが口元を吊り上げた。
「トップと話がついたって、現場がこれじゃ船のネジ1本回せやしないね。……ちょいとあたしが一発、目を覚ましてやるよ!」
「リン!?」
アリアが制止する間もなく、赤銅色の影がバルコニーの手すりを蹴り飛ばした。
高低差30メートルを超える空中へ身を投げ出した格闘家は、広場の中央にそびえ立つ石造りの大鐘楼の屋根へ向けて一直線に落下する。
空中で体を反転させ、足裏の『緋金剛・飛燕具足』の衝撃吸収機構をフル稼働させて鐘楼の頂点へと着地。
息を吸い込む。
リンは丹田に膨大な生体マナを凝縮させ、両手をメガホンのように口元へ添えると、広場全域の硝煙を吹き飛ばすほどの咆哮を轟かせた。
「――てめえら、ゴチャゴチャとみっともない面して喚いてんじゃないよォッッ!!」
大気を激震させる浸透勁の音圧。数千の怒号が一瞬で掻き消え、耳を塞いだ群衆が何事かと一斉に鐘楼の上を見上げた。
その隙を、ルシアンは見逃さなかった。
タワーのバルコニーから身を乗り出し、『アストロラーベ・ワンド』を水平に一閃。
先端の真鍮環が猛烈な速度で回転し、広場に設置されていた市営の超大型魔導掲示板の回路を完全にハッキングして掌握する。
パッと空中に浮かび上がったのは、混乱を煽る為替レートではない。
青く輝く緻密な幾何学魔導図――都市全体の工房、ドック、資材集積所を網の目のように連携させた、前代未聞の『超突貫・耐圧改修精密工程表』だった。
「メルカトリアの全職人、全技師に告ぐ!」
ルシアンの怜悧な声が、魔導拡声によって広場の隅々まで響き渡る。
「逃亡用の商船を奪い合って外海へ出たところで、水圧と酸性潮流による生存率は0パーセントです。座して死を待つか、無謀に溺れ死ぬか……そんな下らない二者択一を、数理は容認しません! 必要なのは、海を切り裂くただ1隻の舟と、それを動かすお前たちの腕だ!」
ざわめきが波紋のように広がる中、鐘楼の屋根の上に、もう1つの影が音もなく降り立った。
潮風を孕んで翻る、油染みた厚手の帆布マント。フードを脱ぎ払ったその下から現れたのは、夜の闇を白銀に照らす豊かな長髪と、至高の輝きを放つ菫色の瞳。そして、腰に帯びた白銀と波頭の意匠――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』。
「あれは……帝国の大逆人……第七皇女アリア……!?」
「本物だ、神刀を持っているぞ……!」
群衆が息を呑む。
フィリアがバルコニーから掲げた【風のワンド】から、清らかな翠玉の追い風が立ち昇り、アリアの放つ言霊を広場の果てまで澄み渡らせて運んでいく。
アリアは鐘楼の天辺に凛と立ち、広場を埋め尽くす荒くれ者たちの視線を、その双眸で真っ向から受け止めた。その姿は、囚われの貫頭衣姿でありながら、帝国のいかなる皇帝よりも堂々とした威厳に満ちていた。
「メルカトリアの職人たち! 船乗りたち!」
アリアの声が、夜の港に澄み渡る。
「帝都は更地になったわ! あんたたちを縛り付け、法外な税と特権で頭を抑えつけてきた帝国の門閥も、教皇庁も、もうどこにもいない! ……だけど、私たちは魔王に命乞いをしに来たんじゃない! 理不尽な運命に世界を明け渡さないために、あの死の海メア・アビスを越えに行く!」
少女は右腕を突き出し、手のひらを群衆へ向けた。カッと眩い光が放たれ、手のひらに刻まれた大水門オロジウムのマスター制御コード――蒼銀の波頭紋様が、夜空へ巨大な光の紋章を焼き付ける。
「大水門を開く鍵は、ここにある! 私たちが死の海を越え、魔王を止めれば、1000年間誰も見たことのない、本物の海への航路が手に入るわ! ……逃げ出すために蓄えてきたあんたたちの技術を、鍛冶の炎を、船大工の誇りを、私たちに預けなさい!」
広場が静まり返った。逃げることしか考えていなかった男たちの胸の奥に、忘れかけていた熱い火種が燻り始める。
「……貴族の注文通りに鉄を叩くだけの毎日だった」
前列にいた老鍛冶師が、煤けた手を握りしめて呟いた。
「魔王に怯えて、フネを奪い合って……俺たちは、いつからそんな無様なネズミになったんだ……?」
少女は迷いなく、腰の白銀の鞘から神刀を一気に引き抜いた。
シャキィン、と透徹な刃鳴りが響き渡る。
アリアの『蒼血』と呼応したレガリアの波頭刃文が、歓喜するように眩い蒼銀の光柱を噴き上げ、暗黒の夜空を白昼のように照らし出した。少女はその神刀を、夜空へ向けて堂々と掲げ上げた。
「世界で1番頑丈で、最高にイカれた舟を仕立て上げるわよ! ……あんたたちの腕は、そんなところで錆びつかせるためにあるんじゃないでしょ!」
掲げられた白銀の刃と、少女の不敵な笑顔。その瞬間、押し殺されていた魂のすべてが爆発した。
「――応よッッ!!」
広場の最前列から、地鳴りのような怒号が上がった。老鍛冶師が掲げた大槌を皮切りに、船大工たちが鋸を、水夫たちが銛を天へと突き上げる。職人たちが腰の魔導溶接トーチを一斉に着火させ、吹き上がる青白い高熱の炎が、広場一面を無数の星火の海へと変貌させた。
「やってやろうじゃねえか! 皇女様!」
「オロジウムの向こうに本物の海があるってんなら、俺たちの手で道を拓いてやるよ!」
「全ドックの火を入れろ! 特級耐蝕鋼と魔導スプリングを倉庫から全部引っこ抜いてこい!」
恐怖と絶望に染まっていた数千の群衆は、瞬く間に「世界最高の舟を組み上げる」という1つの巨大な狂熱のうねりへと塗り替えられた。
鐘楼の上で、リンが痛快そうに破顔し、ルシアンが満足げにアナライザーの数理を巡らせる。
フィリアは胸元で両手を合わせ、街全体から立ち昇る前向きな命の熱気に、瞳を潤ませて微笑んでいた。
足元に駆け寄ってきた大船商ゴルバが、呆れたように大笑いしながら頭を掻いた。
「全くだ……口の上手い小娘だよ、あんたは! ……来な、皇女様。街中の職人どもが資材を担いで押し寄せてくる前に、あの『眠り姫』の顔を拝ませてやる!」
(第四節へ続く)




