第三十九話:『自由都市の盟約』 第二節:天秤の評議会
評議会タワー最上階、重厚な黒鉄の観音扉が、音もなく左右へと滑り開いた。
ルシアンがワンドの先端から流し込んでいた魔導パスコードが青白い光となって消散する。
部屋を取り囲んでいた私兵魔導士2名が、意識を奪われて床へと崩れ落ちるのと同時に、4人は豪奢な赤絨毯を踏みしめて広間へと足を踏み入れた。
「――何者だッ!?」
部屋の中心に据えられた巨大な黒檀の円卓から、怒声が上がった。
居並ぶのは、毛皮の襟巻きをあしらった豪奢な外套や、金鎖を何重にも巻いた仕立て服に身を包む10名の男女。
海運連合、商業メガバンク、鉱業カルテルを牛耳る『10人ギルド評議会』の面々だった。
卓上には、未曾有の金融パニックを示す為替レートの暴落図表と、大型商船の脱出航路図が乱雑に散らばっている。
円卓の上座、熊のように巨大な体躯に傷だらけの顔を持つ男――評議会議長を務める大船商ゴルバが、葉巻を噛み砕きながら立ち上がった。
その背後から、護衛の重装剣士たちが一斉に抜刀し、切先を突き出してくる。
「侵入者だと!? 衛兵は何をしている! ……待て、貴様ら、その身なりは――」
アリアは、深く被っていた帆布のフードを静かに払いのけた。
現れたのは、夜風に揺れる白銀の髪と、至高の輝きを湛えた菫色の瞳。
そして、腰に帯びた白銀と波頭の意匠――帝国の至宝『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』。
「なっ……第七皇女アリア……!? それに、あの追放された異端学者に、スラムの格闘家、典礼院の聖女候補まで……!」
評議員の1人が悲鳴じみた声を上げ、椅子を蹴倒して後ずさった。
号外で「帝都崩壊の引き金を引いた大逆の徒」として指名手配されていた面々が、あろうことか目の前に立っている。
「貴様ら……! 帝都を更地にした魔王に与し、帝国を滅ぼした疫病神が、何の用でこのメルカトリアに乗り込んできた!」
ゴルバが卓を拳で叩き割りそうな勢いで睨みつける。
重装兵たちが1歩踏み込もうとした瞬間、リンが前に出た。
緋金剛の『ギア・ナックル』のボルトが小気味よい金属音を響かせ、重厚な気功の圧力が室内の空気を一瞬で押し潰す。
「動くんじゃないよ、金満オヤジども。あたしたちは首を差し出しに来たんじゃないんだ。……あんたらんのその下らない逃亡計画を止めに来てやったんだよ」
「逃亡だと……!? 無礼な! 我らは自由都市の財産と民を守るために――」
「守る、ですか? 笑止千万ですね」
ルシアンが冷淡に言い放ち、1歩前へ進み出た。
青年学者は『アストロラーベ・ワンド』を水平に掲げ、中央の真鍮環を1回転させる。
右眼のアナライザー・モノクルが青い数理格子を空間へと投射し、黒檀の円卓の真上に、鮮明な立体魔導ホログラムが浮かび上がった。
それは、大陸全土を覆う天蓋の歪みと、西の海域から押し寄せる海流のシミュレーションだった。
「貴方たちが企てているのは、都市の全資産を私設商船団に積み込み、職人や民衆を置き去りにして外海へ脱出する夜逃げでしょう。……ですが、この数理モデルをご賢察いただきたい。帝都の結界が完全に崩壊したことで、天蓋の外側に満ちる高圧原水――『星海』の汚染潮流メア・アビスが、すでに内海バイパスへと逆流を開始しています」
ホログラムの航路図が、禍々しい赤色に染まっていく。
「メア・アビスの酸性濃度および超高圧環境下における、一般商船の耐圧限界時間は約47分。貴方たちの誇る最新式鉄甲船ですら、港を出て半日も経たずに装甲が融解し、水圧によって空き缶のように圧殺されます。……資産も、命も、ただの1粒すら生き残る確率はゼロです」
「つまり!」
横からリンが八重歯を剥き出しにして腕組みをし、商人たちを指差して歯切れよく言い放った。
「あんたちの自慢の鉄のフネごと、金貨もろとも海の底でペシャンコのミンチになるってことさ! みっともない夜逃げなんてハナから通用しないんだよ!」
青ざめる商人たち。
ルシアンの提示した冷徹な数字と、リンの手短で容赦のない通告は、彼らの逃亡計画がいかに無謀な自殺行為であるかを、残酷なまでに分からせていた。
「な……ならば、どうしろと言うのだ! 帝都を平らに均したあの魔王が、この街へも押し寄せてくるのだぞ!」
「レンは、この街を滅ぼしには来ないわ」
アリアの声が、動揺する広間を静まり返らせた。
その声音には、敵対したはずの災厄に対する恐怖は微塵もなかった。
菫色の瞳には、あの地下の暗渠で獲った魚の骨を不器用に外してくれた青年――100年間の孤独に耐えながら、たった1人で約束を守り続けている哀しき釣り師の真芯を、どこまでも信じ抜く温かな光が宿っていた。
少女は1歩、また1歩と円卓へ近づき、大船商ゴルバの正面に立つ。
「魔王レンが均しているのは、民の生きる街じゃない。人々の血と命をすすり、生贄を使い潰して平然としていた、帝国の門閥と欺瞞の支配構造だけよ。……だけど、外海の汚染潮流は待ってくれない。このままでは、魔王を止める前に、世界が海に呑まれて終わる」
「……それを止める術が、お前たちにあるとでも言うのか?」
ゴルバが、震える葉巻の煙を吐き出しながら問うた。
アリアは無言のまま、油染みた帆布マントの右腕を掲げた。
そして、掌を天井へ向けて開く。
キィン、と清らかな共鳴音が大広間に響き渡った。
少女の掌の皮膚の下から、古代の波頭を模した鮮烈な蒼銀の幾何学紋様が浮かび上がり、至高の神聖光圧が円卓一面を照らし出す。
大気中のマナが、まるで主を迎えた海のように静まり返っていく。
「これは……大水門オロジウムの……!?」
ゴルバの隻眼が見開かれた。
海を生きる商人として、彼らはその紋章の意味を知っていた。
大陸の内海と外洋を隔てる、人類史上最大の防潮隔壁。
1000年前に初代聖帝によって封印され、いかなる兵器でも、いかなる魔導でも開くことのできなかった、世界の要衝。
「父帝より託された、大水門オロジウムのマスター制御生体コードよ。……この門を開き、外海の激流を制御できる鍵は、今や世界で私の『蒼血』だけ」
アリアは蒼い光を収め、ゴルバの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「取引をしましょう、評議会。逃亡のための船ではなく、あの死の海メア・アビスを越えるための船と設備を、私たちに提供しなさい。……成功すれば、オロジウムの航路は解放され、あんたちには1000年間誰も見たことのない、本物の海の交易路が手に入るわ」
「本物の……海の交易路……!」
評議員たちが息を呑む。
それは、商人としての魂を芯から震わせる、悪魔的でありながら至高の投資案件だった。
座して海に呑まれるか、逃げて水圧に圧殺されるか、それとも、この白銀の少女に全財産を賭けて、前人未到の海路を掴み取るか。
ゴルバは短くなった葉巻を灰皿に押し付け、低く笑い出した。
「……たまげたな。帝都の皇女様が、随分とえげつない商談を持ちかけてくるじゃねえか」
男は円卓の引き出しに手を突っ込み、厳重に幾重もの封蝋が施された、真鍮のプレートを取り出した。
その表面には、歯車とスパナ、そして羽ばたく小鳥の紋章が刻まれている。
「いいだろう、乗ったぜ、お嬢ちゃん。……ちょうど100年前、ある頭のネジが外れた女技師が、膨大な保管料と引き換えにこの街の底へ預けていった『厄介な遺産』がある。あんたたちの狂気には、あのイカれた船がお似合いだ」




