第三十九話:『自由都市の盟約』 第一節:海風の寄港地
暗黒の地下水路を矢のように滑走していた小型潜航艇の速度が、緩やかに落ちていった。
前方の排水ゲートが重々しい音を立てて持ち上がり、外界からの強烈な光が差し込む。
鼻孔をくすぐったのは、硝煙と灰の匂いではない。幾千もの香辛料、乾いたタール、脂の乗った魚の干物、そして荒々しくも生命力に満ちた、本物の塩気を含んだ潮風だった。
「……抜けたよ!」
舳先に身を乗り出したリンが、潮風に赤銅色の短髪をなびかせながら声を上げた。眼前に広がっていたのは、大陸西部の内海と大運河が交差する巨大な河口デルタ――中立特区、自由都市メルカトリアの全景だった。
幾重にも重なり合う赤煉瓦と黒石造りの巨大倉庫群。運河を埋め尽くすように停泊する何百隻もの外洋帆船や、蒸気と魔導排気煙を吐き出す鉄甲商船。
白亜の帝都アルシリアを覆っていた、あの息の詰まるような教会の白い旗は、この空のどこにも見当たらない。翻っているのは、海運連合、造船鍛冶、商業メガバンク、冒険者ギルド、魔導工学連合といった、それぞれの職能と実利を誇示する無数のギルド旗だった。
「ここが……メルカトリア……!」
フィリアが【風のワンド】を抱きしめたまま、両目を丸くして岸壁を見上げた。大聖堂の地下や水水晶の離宮に閉じ込められていた少女たちにとって、神話と契約、そして泥臭い人間の欲望だけで組み上げられたこの国際商業都市の熱気は、眩しすぎるほどに鮮烈だった。
脱出艇は、雑多な小舟がひしめく下層の公共船着き場へと滑り込んだ。アリアたちは船を舫い、粗末な灰色の貫頭衣の上から、ドックの船室に残されていた油染みた厚手の帆布マントを深く羽織り、陸へと足を踏み出す。
だが、港を満たしていたのは、活気だけではなかった。
石畳の埠頭を行き交う商人や船乗りたちの顔には、尋常ではない焦燥と怯えが張り付いていた。
「号外だ! 帝都アルシリアが完全崩壊! 皇宮および中央要塞群が一夜にして更地と化す!」
「聖帝陛下が崩御! 四大門閥はすべて壊滅、教皇庁機能は完全に停止!」
「帝国金貨の相場が大暴落だ! 為替取引所を封鎖しろ、現物の銀と小麦を倉庫へ引き揚げろ!」
少年たちが叫びながら紙片を撒き散らし、荷馬車が怒号とともに群衆を掻き分けて走る。大陸全土を支配していた千年の覇権国家が消滅したという凶報は、この商都の血管である流通と金融を一瞬にして麻痺させ、パニックの火の手を広げていた。
群衆の間では「魔王軍が押し寄せてくる」「いや、更地にされたのは軍と貴族の屋敷だけらしい」といった真偽不明の怒号が飛び交い、恐怖と混乱が渦巻いている。
「大混乱ですね。……当然の帰結ですが」
ルシアンが深く被ったフードの隙間から目を細め、胸元の『アストロラーベ・ワンド』の真鍮環を指先で滑らかに回転させた。右眼に展開されたアナライザー・モノクルの蒼い数理格子が、都市全域から漏れ出る錯綜した魔導通信とパニックの波形をリアルタイムで解析していく。
「帝都の更地化により、東方からの交易路は完全に遮断。さらに魔王軍が西へ進軍してくるという流言が広がり、富裕層は私有船へ財産を積み込んで海外への逃亡を図っています。物価は通常の十倍に跳ね上がり、略奪を恐れた私兵部隊と一般民衆の間で一触即発の緊張状態にありますね」
「逃げ出す奴らは勝手にしなよって言いたいけど……これじゃ、まともに飯にもありつけやしないね」
リンが空腹を誤魔化すように首を鳴らし、周囲を鋭く警戒する。避難民を乗せてきた貨物船の周りには、泥に塗れた平民たちが群がり、冷え切ったスープを求めて長蛇の列を作っていた。帝国が崩壊したことで、その歪みのすべてが、末端の民へと押し寄せている。
ルシアンは路地裏の古物商の前で立ち止まり、アカデミー時代に仕込んでいた裏の情報ネットワークの暗号符を露店の壁面に打ち込んだ。数刻の後、戻ってきた青年学者の細められた双眸には、冷徹な光が宿っていた。
「……掴みました。現在、都市の中枢である『十人ギルド評議会』が緊急招集されています。議題は、全港湾の即時封鎖と、富裕商人層による都市放棄の是非です」
「都市放棄……? この街を捨てて逃げるってこと!?」
アリアが眉を吊り上げ、低く問いただした。
「ええ。魔王の進軍に怯え、自らの資産だけを大型装甲船に積み込み、中立の看板を捨てて外海へと脱出しようとしているのですよ。残された職人や民衆は、防潮壁の内側に置き去りです。……もっとも、外海(星海)の高圧汚染潮流が逆流している今、まともな耐圧機構もない商船で外へ出れば、港を出て数刻で水圧に圧殺されるのがオチですがね」
「保身のために、また民を切り捨てるのね……。どいつもこいつも、帝国の貴族とやってることが同じじゃない」
アリアはマントの下で、右の掌を強く握りしめた。皮膚の下で、老聖帝から託された大水門オロジウムのマスター制御生体コードが、熱く脈打っている。
逃げ惑う商人たちを責めるのは容易い。
だが、ここで街が瓦解し、港が放棄されれば、死の海メア・アビスを渡海するための船も、資材も、すべて灰燼に帰してしまう。レンを止めるための手段が、永久に失われるのだ。
アリアは振り返り、三人の仲間たちの顔を真っ直ぐに見据えた。
「行くわよ。その『十人ギルド評議会』の密室とやらに乗り込むわ」
「へっ、話が早くて助かるよ! ケツをまくろうとしてる大商人どもの横っ面、ひっぱたいてやろうじゃないかい!」
リンが『ギア・ナックル』のボルトを締め直して不敵に笑う。フィリアもまた、その翠玉の瞳に凛とした決意を灯し、力強く頷いた。
「はい、アリア様。……あたしたちの道を、あたしたちの手で開くために!」
ルシアンがアストロラーベを軽く構え直す。
「評議会ビルの警備術式なら、僕の演算で五分もあれば解錠可能です。……行きましょう。彼らに、真に価値ある投資とは何かを数理的に教えてやる時間です」
潮風が吹き抜ける港の雑踏を裂き、四人は街の中央にそびえ立つ白亜の商工会館――天秤の旗が翻る評議会タワーへと向けて歩み出した。
(第二節へ続く)




