第三十八話:『老聖帝の黄昏』 第三節:最後の勅命
静寂の至高の間に、星海の冷たい潮風が吹き抜けていた。
項垂れる父帝を見下ろしながら、アリアは静かに一歩前へ進み出た。
その双眸には、憎悪や怨恨といった澱んだ色は欠片もない。
ただ、滅びゆく千年の虚飾を背負い、それを自らの代で清算する者の透徹な覚悟だけが満ちていた。
「私は、貴方の恐怖も、帝国が積み重ねてきた欺瞞も継ぎはしません、父上」
澄み渡るアリアの声が、瓦礫の広間に凛然と響き渡る。
「私は、誰かの身代わりの人形として玉座に座るつもりなど微塵もない。……私の仲間と共に、誰も犠牲にしない未来を、本物の海を切り拓きます」
老聖帝は、ゆっくりと顔を上げた。
落ち窪んだ灰色の瞳から、一筋の涙が枯れ果てた頬を伝って零れ落ちる。
かつて自分が水水晶の離宮に閉じ込め、恐れ続けた白銀の娘。
その少女は今、千年のいかなる皇帝よりも気高く、揺るぎない威風を放ちながら己を見下ろしていた。
「……そうか。……見事だ、アリア」
老人は自嘲と安堵の混ざり合ったかすかな笑みを漏らした。
「お前の言う通りだ。……余は、王の器ではなかった。保身に縋りつき、他者を贄として貪るだけの、ただの臆病な寄生虫に過ぎなかったのだ。……だが、これだけは託さねばならぬ」
老聖帝は震える右腕を懸命に持ち上げ、枯れ枝のような人差し指の先端を、玉座の肘掛けに嵌め込まれた青白い水晶へと押し当てた。
薄氷が割れるような鋭利な気配とともに、老人の指先が割れ、黒ずんだ一滴の血が水晶へと滲み込む。
促され、アリアは迷いなく右手を差し出した。
老聖帝の血に濡れた指先が、少女の掌の真ん中に触れる。
パチリ、と蒼い火花が散った。
アリアの掌の皮膚を通して、古代の波頭を模した紋章が鮮やかに浮かび上がる。
体内の『蒼血』が激しく脈打ち、血液の奥深くに眠っていた鍵穴に、マスターキーがカチリと噛み合うような確かな手応えが走った。
「……初代聖帝より受け継がれし、大水門オロジウムのマスター制御生体コードだ」
息を喘がせながら、老聖帝が告げる。
「あの水門は、外海の奔流とこの大陸の内海を隔てる唯一の防潮壁。……それを開門し、あるいは完全に制御できる生体鍵は、今や世界でただ一人、お前の『蒼血』だけだ」
「大水門オロジウムの……生体鍵」
「そうだ。行け、アリア。……そして、あいつに……レンに伝えてくれ」
老聖帝は、天蓋の抜けた夜空――星海が暗く青い光を湛える虚空を見上げ、震える息を絞り出した。
「余たちが奪い、汚し続けた世界を許してくれとは言わぬ。……だが、あいつが見たがっていた本物の海を……お前たちで見せてやってくれ……」
老人は最後の力を使い果たすように、玉座の右脇に隠されていた重厚な真鍮のレバーを力任せに引き倒した。
床下深くから、重苦しい油圧シリンダーの駆動音が響き渡る。
至高の間の大理石の床が二つに割れ、下方へと続く冷たい風を孕んだ螺旋階段と、地下水路へと通じる巨大なハッチが姿を現した。
「皇室専用の秘密潜航水路だ。……外郭放水路の暗渠を抜け、西の大運河へ直結している。……行け、第七皇女アリア。……これが、余の最後の勅命だ」
その言葉を最後に、老聖帝の腕が力なく肘掛けから滑り落ちた。
閉ざされた双眸。
百年に及ぶ醜悪な延命と欺瞞の重圧からようやく解き放たれたかのように、その老いた顔には、静かな安堵の薄笑みが残されていた。
アリアは、息を引き取った父の亡骸を見つめ、静かに目を閉じた。
そして、第七皇女として深々と、一度だけ気品ある礼を捧げた。
「……行って参ります、父上」
踵を返し、階段の下で待つ仲間たちの元へ駆け下りる。
「アリア、追っ手が来たよ!」
階段下で周囲を警戒していたリンが、鋭く叫んだ。
皇宮の正面階段の下から、典礼院の残党部隊と重装審問兵たちが、無数の魔導ランタンの明かりを揺らしながら怒号を上げて雪崩れ込んできていた。
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薄暗い地下ドックには、皇室の紋章が刻まれた小型の潜航脱出艇が係留されていた。
四人は素早く乗り込み、ルシアンが動力炉に火を入れる。
激しい水煙を噴き上げながら、脱出艇は外郭放水路の奔流へと躍り出た。
更地となった帝都アルシリアの地下を、猛烈な速度で西へ――光の届かぬ暗渠を切り裂いて舟は進む。
目指すは、教会の支配も門閥の権力も届かない、大陸最大の海運中立特区――自由都市メルカトリア。
先代工兵エルの遺産が眠り、死の海を越えるための最後の準備を整える場所。
「待ってて、レン……。あたしたちが、必ずあんたを止めに行くから!」
白銀の髪をなびかせ、新世代の舟は更地の底を突き抜け、新たな荒波の待つ海へと漕ぎ出していった。
(第三十八話 完 / 第三十九話へ続く)




