第三十八話:『老聖帝の黄昏』 第二節:蒼血の告解
至高の間の瓦礫を吹き抜ける星海の夜風が、玉座に座す老人の白い残髪を揺らしていた。
アリアは腰の『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』に左手を添えたまま、玉座の三歩手前で足を止めた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、首をわずかに傾けて父帝を見つめる。
その所作には、スラムの地下闘技場で泥にまみれていた時の荒々しさも、仲間たちと悪態をつき合う軽妙さも微塵もない。
千年の神聖アルシリア帝国において、最後に残された直系皇族――第七皇女アリアとしての、冷徹なまでの気品と厳粛さが満ちていた。
「……お久しゅうございます、父上」
静かに紡がれたアリアの声は、天蓋の抜けた大広間に澄み渡るように響いた。
「帝都の黄昏を、共に見届ける時が参りました」
老聖帝は、乾ききった喉を微かに鳴らした。
骨と皮ばかりになった手が、肘掛けの金装飾を頼りなげに撫でる。
落ち窪んだ灰色の双眸が、眼前の娘を凝視していた。
震える瞳の奥に宿るのは、皇帝としての誇りではなく、百年の欺瞞を暴き立てられた者の、生々しい戦慄だった。
「……黄昏、か。……そうだ。余たちの千年の都は、たった一夜で更地と化した。……あいつの手によってな」
老人は掠れた息を吐き出し、乾いた笑いを漏らした。
「お前は知ったのだろう、アリア。余が……帝国が、百年前の祝勝晩餐会で何を行ったのかを」
「はい。ヘパイストスの地下で、ヴェネツィア・アルシアの金庫で、そしてアレキシアの禁書庫で……すべてを暴いて参りました」
アリアの声音は平坦だった。怒りに声を荒らげることもなく、淡々と事実を突きつける。
「四大門閥の罪悪も、神樹の排液を希釈して売り捌いていた拝金支配も。そして……魔王を討ち果し、命懸けで国を救った初代勇者たちを謀殺しようとし、聖女クラリス様の奇跡を生体透析で削り取り、最後にはその命すら奪おうとしたことも」
「……大義のためだ」
老聖帝の口から漏れたのは、見苦しい自己弁護の言葉だった。
だが、その声にはかつての威厳はなく、枯れ葉が擦れ合うような頼りなさしかなかった。
「天蓋の外側に満ちているのは、神聖な虚無などではない。……超高圧の原水が渦巻く、暗黒の『星海』だ。この世界そのものが、広大な海の底に沈められた檻に過ぎぬ! 神樹の結界が失われれば、あの水圧が一瞬にして大陸全土を圧殺するのだ! それを防ぐためには……奇跡を放ち続ける生贄が、クラリスの命が必要だったのだ……ッ!」
「それが、レンたちを背後から刺す理由になるのですか」
アリアの菫色の瞳が、冷徹な燐光を放って老帝を射抜いた。
「世界を守るためと嘯きながら、貴方たちが本当に守りたかったのは何ですか? クラリス様から絞り取った特級神水を呷り、自らだけが百年もの間、壮年の肉体を保って玉座に居座り続けること……その醜悪な保身こそが、貴方たちの本質ではありませんか」
「っ……」
図星を突かれ、老聖帝の喉が引き攣った。
額に冷や汗が滲み、老衰の身体が激しく震える。
反論の言葉は、どこにも見当たらなかった。
目の前に立つ娘は、帝国のあらゆる虚飾を剥ぎ取り、その欺瞞の芯を冷徹に見透かしていた。
老人は、力なく玉座の背もたれへと身を沈めた。
吹き抜ける夜風に含まれる微かな潮の気配に、老聖帝の肌が粟立つ。
そして、恐れを抱くように、アリアの顔を――白銀の髪と、透徹な菫色の瞳を凝視した。
「……余は、恐ろしかったのだ」
老聖帝の唇が、震えながら言葉を紡ぎ出した。
「十六年前、水水晶の離宮でお前が産声を上げた、あの夜のことが……」
アリアの眉が、わずかに動いた。
「百年前、クラリスを喪って以降、神樹の毒素は年々濃度を増していた。神水による余の延命も、いずれ限界が来ることは分かっていたのだ。……だからこそ余は、初代聖帝の濃密な直系血統を交わらせ、天蓋の外海を御する大水門オロジウムのマスター制御生体鍵たる『純粋な蒼血』を宿した器を求め、お前を産ませた」
帝国を永遠に支配し続けるための、完璧な鍵。
だが、老聖帝がその夜に目撃したものは、都合の良い道具などではなかった。
「……だが、生まれた赤子は、余の血など微塵も感じさせぬ異形だった」
老聖帝の声が、底知れぬ畏怖に震える。
「内陸の離宮であるはずの部屋を、息もできぬほどの『星海の潮の匂い』が満たした。……今、この至高の間に吹き込んでいる風と、まったく同じ潮の匂いだ。天空の天蓋から黄金の光芒が降り注ぎ、余たちが千年間必死に維持してきた神樹の結界が、お前の産声ひとつで――完全にゼロ化、無負荷化されたのだ! そして……」
老人は、両手で自らの顔を覆うようにして、息を荒げた。
「……お前のその顔だ」
アリアは、無言のまま父を見つめていた。
「白銀の髪、菫色の双眸……透き通るような肌の質感に至るまで、百年前、余たちを真っ向から拒絶し、あの男のために命を燃やし尽くした聖女――クラリスと、寸分違わぬ姿写しだったのだ……ッ!」
老聖帝の乾いた叫びが、夜風に散った。
「余の血など継いでおらぬ! 帝国の都合で産み落とされた命ですらない! 余は直感したのだ……お前は、余たちの犯した血の欺瞞をすべて叩き潰すために、世界そのものが、天蓋の外の星海が遣わした『天罰』なのだと……ッ!」
殺すこともできなかった。
触れることすら恐ろしく、神樹結界を無力化するその存在を隠蔽するため、老聖帝は娘を水水晶の離宮の奥深くへと幽閉した。
そして教皇庁と結託し、「悲劇の聖女クラリスの再来」という偽りの偶像の皮を被せることで、その真の牙を抜き、自らの恐怖から目を背け続けてきたのだ。
「余は……お前が恐ろしかったのだ、アリア。……クラリスの顔をして、余の玉座を、余の帝国を終わらせに来た……白銀の刃そのものだったからだ」
老聖帝は、灰色の瓦礫の床へ向けて、力なく項垂れた。
アリアは、静かにその告白のすべてを聞き届けていた。
胸の奥で、何かが静かに、だが熱く腑に落ちていく感覚があった。
なぜ自分が、生まれつき『無垢なる聖域』を放つことができたのか。
なぜ魔王レンと刃を交えた時、敵であるはずの男の孤独に、胸が張り裂けそうになったのか。
(……あたしは)
アリアは、腰の神刀の柄をぎゅっと握りしめた。
父の恐怖も、教会の欺瞞も、もう少女を縛ることはできない。
「……告白は、それだけですか、父上」
アリアの声は、どこまでも澄み渡り、毅然としていた。
(第三節へ続く)




