第三十八話:『老聖帝の黄昏』第一節:灰燼の玉座
崩壊した大聖堂の地下保管庫から、瓦礫の斜面を這い上がった四人の肌を刺したのは、凍てつくような夜風だった。
視界が開けた瞬間、アリアは思わず息を呑んだ。
そこには、かつて白亜の美しさを誇り、大陸の頂点に君臨していた帝都アルシリアの姿は、影も形も残されていなかった。
地平線の果てまで、平坦に押し均された白い灰の更地。
幾重にも連なっていた貴族街の豪奢な尖塔も、大聖堂の壮麗な円蓋も、すべて等しく粉砕され、平らな荒野へと還されていた。
空を見上げれば、かつて偽りの青空を映し出していた天蓋の結界が剥がれ落ち、遥か頭上には、深海のように暗く、冷たい潮光を放つ星海が剥き出しになって夜空を覆っている。
遠く、更地の外縁――アリアたちが守り抜いた外郭放水路の周囲から、数万、数十万の避難民たちが焚き火を囲む微かな赤い火が、点々と揺れていた。
民は、生き残っている。
国家という巨大な虚飾が崩れ去った跡に、ただ泥臭い人々の命の灯火だけが、確かに息づいていた。
「……本当に、跡形もなく均されちまったね」
リンが緋金剛の『ギア・ナックル』の重みを確かめながら、更地の向こうを見つめて呟いた。その隣で、ルシアンが『アストロラーベ・ワンド』を胸元に抱え、静かに頷く。
「更地化の規模、深度ともに計算通りです。……魔王レンの目的は、帝国の軍事インフラと特権階級の支配機構の完全解体。民衆の住居や命を直接狙った攻撃は、ただの一撃もありませんでした」
「レン様は……ずっと、一人でこの作業を続けてこられたんですね」
フィリアが【風のワンド】を握りしめ、胸元の翠玉を淡く明滅させながら、更地の向こうの暗渠へと祈るような視線を向けた。
その広大な平坦の荒野の中で、唯一、奇跡のようにその巨体を残している構造物があった。かつての皇宮――白水晶の宮殿の中枢棟。周囲の外郭宮殿や防壁はすべて吹き飛ばされながらも、最深部たる『至高の間』を擁する塔だけが、まるで墓標のように更地の中心にそびえ立っていた。
「……行きましょう」
アリアの声は、静かだった。
腰に帯びた『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』の柄にそっと手を添える。
フィリアの奇跡によって全身の傷は癒やされ、体内の『蒼血』は澄み渡るように巡っている。身に纏うのは、破れた灰色の貫頭衣。
だが、その背筋をピンと伸ばして歩み出す立ち姿には、いかなる華美な礼装よりも気高く、揺るぎない威厳が宿っていた。
皇宮の正門は砕け散り、かつて並んでいた近衛兵の姿も、着飾った貴族たちの姿もどこにもない。死に絶えた沈黙の巨塔を、四人は足音だけを響かせて登っていった。
大理石の階段を登りつめ、半壊した大扉を押し開けた先――。
かつて世界の頂点と謳われた、皇宮最奥『至高の間』。
吹き抜けの天蓋は完全に吹き飛び、冷たい星海の潮風が吹き抜けていた。瓦礫が散乱する白銀の広間の最奥、高く積み上げられた階段の頂点に座す玉座。
そこに、ひとつの影があった。
「……父上」
アリアが、静かにその名を呼んだ。
玉座に座していたのは、かつて大陸全土に君臨し、絶対の覇気と壮年の威厳を放っていた神聖アルシリアの皇帝ではなかった。
金糸の豪奢な皇袍はブカブカに余り、その下にある肉体は、まるで枯れ木のように干からびている。豊かな金髪は完全に色素を失って白骨のように白濁し、顔面には幾重もの深い皺が刻まれ、眼窩は黒く落ち窪んでいた。
百年前、先代聖女クラリスから抽出した『特級神水』を飲み続けることで、不老の肉体を保ち続けてきた男。
魔王レンによって四大門閥のプラントが破壊され、神水の供給が完全に絶たれたことで、魔法の仮面が剥ぎ取られ、百数十歳という本来の実年齢へと急速に巻き戻った、老衰の成れの果てだった。
カツン、カツン、と。
アリアは階段を一段ずつ、確かな足取りで登っていった。後ろを振り返ることも、仲間を呼び寄せることもしない。リンも、ルシアンも、フィリアも、階段の下で足を止め、少女が背負うべき「血の対峙」を静かに見守っていた。
玉座の前に立ち、アリアは静かに膝を折ることなく、父帝を見据えた。
その菫色の瞳には、憎悪も、罵倒の色もない。ただ、千年の虚飾を終わらせる皇女としての、透徹な光だけが宿っていた。
老聖帝の乾いた唇が、微かに震えた。濁りきった灰色の瞳が、ゆっくりとアリアの姿を捉える。
「……来たか、アリア。……第七皇女、アリアよ」
掠れ、擦り切れた老人の声が、崩壊した至高の間に虚しく木霊した。
(第二節へ続く)




