第三十七話:『鳥籠を破る百合』第三節:檻の粉砕
暗黒に沈んでいた浸水牢の通路が、突如として眩い翠玉の燐光に満たされた。
アリアは、冷たい壁に背を預けたままハッと顔を上げた。
隙間から差し込んできた光は、松明の煤けた黄色でも、魔導ランタンの無機質な青白さでもない。
春の陽光のように温かく、百合の香気を帯びた透徹な光。
「この光……まさか、フィリア……!?」
直後、アリアの独房を閉ざしていた分厚い花崗岩の隔壁と鋳鉄の扉が、音もなく白銀と緑の光の粒子へと解け崩れた。
手首と足首を縛り付けていた呪縛枷も、まるで最初から存在しなかったかのようにサラサラと光の砂になって霧散する。
両隣の房からも、ほぼ同時に硬質な金属が霧散する微かな気配が響いた。
光の向こう側から、水音を立てて駆け寄ってくる足音。
現れたのは、引き裂いた粗末な貫頭衣の上から、翠玉の清らかな燐光をベールのように纏ったフィリアだった。
その四肢には、もはや魔導を遮断する鎖の痕跡すら残っていない。
額に淡い翠玉の小冠を戴き、翠玉の双眸をいっぱいに輝かせながら、光の花園から飛び出してきたかのような少女がアリアへと両手を広げていた。
「アリア様……!」
「フィリアッ!」
アリアは自由になった両足で清水を蹴り、迷うことなくその華奢な身体を抱きしめた。
ぎゅっと互いの体温を確かめ合うように重なる腕。
何年もの長きにわたって生き別れていた実の姉妹が、ようやく奇跡の再会を果たしたかのような、混じり気のない満面の笑顔。
気丈に振る舞ってきたアリアの菫色の瞳に、熱い涙が滲み、溢れそうになるのをぐっと堪えながら笑みを深める。
その瞬間だった。
重なり合ったフィリアの小さな掌から、温かな光の奔流がアリアの全身へと雪崩れ込んできた。
先刻のガルニエの鉄杖による頬の激痛と鬱血、更地化の衝撃で焼き切れていた筋繊維の軋み、凍てつく汚水に侵食されていた内臓の冷え――それらすべての苦痛が、春の雪解け水のように音もなく引いていく。
裂けて血を流していた肌の創口が清らかな燐光に撫でられて瞬時に塞がり、枯渇していた『蒼血』のマナ循環が、力強い鼓動とともに急速に満ち足りていく。
「フィリア、これ……っ」
「もう、痛い思いはさせません。……あたしが、治します!」
かつての震えるような怯えは完全に消え去り、少女の小さな身体からは、大地を包み込むような静かで力強い生命の脈動が溢れていた。
満身創痍だったアリアの四肢に、かつてない軽やかさと白銀の力が蘇る。
「へっ……やるじゃないかい、聖女様!」
隣の房から、湿った赤銅色の髪を乱暴にかき上げながらリンが姿を現した。
八重歯を剥き出しにし、解放された両手の手首を鳴らしながら、悪友の無事と驚異的な治癒の奇跡に破顔している。
「まさかあたしらの方が助け出される側になるなんてね! 最高の気分だよ!」
その背後から、乱れた衣服の裾を整えながらルシアンが歩み出てくる。
失われた眼鏡の代わりに目を細め、信じられないものを見るように通路一面に満ちる光の数理を注視していた。
「……生体マナの受動的透析を反転させ、環境の理そのものを自己の聖域で再構築したというのですか。傷の再生速度も常識の域を逸脱している……数理的にも規格外、完璧な覚醒ですね、フィリア」
「えへへ……ルシアン様に褒められちゃいました」
フィリアは照れくさそうに頬を緩めた後、きゅっと表情を引き締めて三人の顔を見渡した。
「お礼を言うのはあたしの方です。みんなが、あたしに生きる勇気をくれたから……。さあ、行きましょう! あたしたちの武器を、取り戻しに!」
「当然よ! あの司祭の鼻っ柱をへし折るついでに、きっちり利子をつけて返してもらうわ!」
アリアの力強い声に、四人の視線がひとつに束ねられた。
もはや誰が守る側でも、守られる側でもない。
対等な魂で結ばれた新世代カルテットの反撃が、ここから幕を開ける。
大聖堂の地下回廊に、けたたましい魔導警報のサイレンが鳴り響いていた。
崩壊を免れた典礼院の地下保管庫。
金糸の典礼服を乱した執行司祭ガルニエが、保管庫の重装甲扉の前で狼狽し、警備兵たちを怒鳴り散らしていた。
「何をもたついている! 早く神刀と押収した魔導兵器をシェルターの最奥へ移送しろ! ……浸水牢の通信が途絶えただと!? 馬鹿な、あの欠陥品の小娘ごときが暴れられるはずが――」
次の瞬間、凄まじい衝撃波とともに、保管庫の重厚な鋳鉄扉が蝶番ごと吹き飛んだ。
濛々と立ち込める白煙を切り裂き、四つの影が迅雷のごとき速度で突入してくる。
「なっ……貴様ら、なぜ檻から――!?」
「返してもらいに来たわよ、ガルニエ司祭!」
先頭を切って疾走したアリアが、保管台の上に無造作に置かれていた白銀の抜き身――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』へ一直線に手を伸ばした。
指先が柄に触れた瞬間、全快したアリアの『蒼血』と神刀の波頭刃文が共鳴し、歓喜の蒼銀の輝きを爆発させる。
「させるかッ! 射殺せ!」
残党兵たちが一斉に魔導短銃を構えるが、その銃口が火を噴くよりも早く、横合いから猛烈な突風が吹き荒れた。
「あたしのナックルに触ってんじゃないよ、薄汚い手が!」
リンが床を滑り込み、台座から緋金剛の『ギア・ナックル』を両腕へ装着する。
噛み合ったボルトから高圧蒸気が噴出。
格闘家が放った鋭い回し蹴りと裏拳の連撃が空気を裂き、銃を構えていた兵士三名をまとめて壁へと叩き伏せる。
「僕の演算器を乱暴に扱わないでいただきたいですね」
ルシアンが冷徹な手つきで『アストロラーベ・ワンド』を回収し、先端の真鍮の輪を滑らかに回転させた。
展開された幾何学偏向障壁が、背後から放たれた追撃の光弾をすべて弾き返す。
そしてフィリアが、自らの魂の拠り所たる【風のワンド】を胸元へと抱き留めた。
ワンドの翠玉が、少女の覚醒に呼応してかつてない清らかな光彩を放つ。
全武装を完全に奪還した四人が、背中を合わせるように陣形を組んだ。
「ば、化け物どもめ……! 帝国の秩序を何と心得る!」
腰を抜かして後ずさるガルニエを見下ろし、アリアは静かに歩み寄った。
そして、抜刀したレガリアの鞘を逆手に握ると、一切の躊躇なく司祭の顔面へ向けて叩き込んだ。
硬質な破砕音。
「ぐぶっ!?」と無様な悲鳴を上げ、ガルニエの鼻梁が文字通りへし折れて鮮血を吹き出し、男はそのまま白目を剥いて床へと崩れ落ちた。
「言ったはずよ、鼻っ柱をへし折ってやるってね」
冷たく言い放ち、アリアはレガリアを鞘へと納めた。
気絶した司祭に背を向け、少女の視線は保管庫の天井――崩落した大聖堂の瓦礫の隙間から覗く、皇宮の残骸を捉えていた。
「待ってて、お父様……。すべての欺瞞を、清算しに行くわ」
白銀の神刀を腰に帯び、少女たちは崩壊した地上、老聖帝が待つ皇宮の最奥へと向けて駆け出した。
(第三十七話 完 / 第三十八話へ続く)




