第三十六話:『教会の檻』 第二節:欺瞞の取引
冷え切った地下水路の石造通路を連行された四人は、荒々しく別々の尋問室へと分断された。
アリアが放り込まれたのは、壁一面に魔力遮断の楔が打ち込まれた狭隘な石室だった。
ボロボロに引き裂かれていた白藍の跳躍装束は乱暴に剥ぎ取られ、与えられたのは、粗末な灰色の麻布を切り抜いただけの薄い貫頭衣一枚。
濡れた麻布が肌へ冷たく張り付き、体温を容赦なく奪っていく。
手首と足首には分厚い呪縛枷が嵌められ、立ち上がる自由すら奪われていた。
重い鉄扉が開き、革靴の足音が石室に反響する。
現れたのは、金糸の刺繍が施された白銀の豪奢な典礼服を纏う初老の男――典礼院特務執行司祭、ガルニエ。
手には儀礼用の重厚な銀装鉄杖を握り、その細い瞳には、瓦礫の底で生き延びた者特有の卑劣な野心と底知れぬ選民思想が濁っていた。
「……酷い有様ですな、アリア殿下」
ガルニエは薄ら笑いを浮かべ、鉄杖の石突きで床を小突いた。
「地上は魔王の天災により、完全に平らな灰の海と化しました。皇宮は崩壊し、聖帝陛下も教皇聖下も生死不明……否、もはや現世にはおられますまい。千年の神聖帝国は、事実上瓦解いたしました」
「知っているわよ……。あんたたちが保身のために仲間を売り飛ばし、生贄を貪り食ってきたツケが回っただけよ」
濡れた銀髪を額に張り付かせながら、アリアは血の滲む唇で冷たく言い放った。
菫色の瞳には、怯えの色など微塵もない。
「ツケ、ですと? 愚かしい」
ガルニエは鼻で嗤い、膝をつくアリアの眼前に歩み寄った。
「帝国という世俗の殻が壊れたに過ぎません。我ら教会には、地下シェルターに温存された膨大な聖遺物と、生き残った何十万もの愚民が残されている。……だが、あの瓦礫の荒野を統率し、教会を中心とした新秩序を再建するためには、民衆を熱狂させる『象徴』が必要なのです」
司祭は屈み込み、手袋越しにアリアの顎を強引に持ち上げようとした。
アリアは激しく顔を背け、男の指を払いのける。
ガルニエは不快げに目を細めたが、そのまま冷酷な囁きを続けた。
「取引をいたしましょう、殿下。……貴女は、民衆を更地化の災禍から救った唯一無二の英雄だ。その名声を利用させていただきたい」
「……何が言いたいの」
「簡単なことです。あのスラムの野良犬と、追放された貧乏学者の出来損ない……リンとルシアンの二名が、魔王軍と内通して帝都の防衛機密を売り渡した首謀者であると、民衆の面前で告発なさい」
アリアの奥歯が、ギリと軋んだ。
「貴女は『魔王の手先に騙されていた悲劇の皇女』として教会に保護され、教皇庁の全幅の支持のもと、神聖アルシリアの初代女帝として即位していただく。……ふたりの謀反人を公開処刑台へ送れば、民衆の怒りは収まり、貴女は至高の玉座を、我らは教会の絶対的復権を手に入れる。誰もが納得する美しい結末です」
仲間の命を贄にし、教会が操る繰り人形の女帝として君臨しろ――。
百年前、レンたちを裏切り、クラリスの命を吸い尽くしたあの祝勝晩餐会の構図と、何一つ変わらない醜悪な取引だった。
アリアの口元が、ふっと緩んだ。
蔑みと嘲笑に満ちた、凍てつくような笑み。
「……断るわ」
「何だと?」
「誰があんたたちの汚らわしい操り人形になるもんですか。……あたしの仲間を売って戴く冠なんてね、そこらの泥水以下の生ゴミよ!」
ペッ、と。
アリアは口内に溜まった鮮血混じりの唾を、ガルニエの磨き上げられた革靴へ向けて吐き捨てた。
「貴様……っ!!」
ガルニエの顔面が屈辱で朱に染まった。
男は容赦なく右手の銀装鉄杖を振り上げ、無防備なアリアの横顔へ向けて叩きつけた。
鈍い打撃音。
アリアの小柄な体躯が真横へ吹き飛び、石造りの壁へ背中を強かに打ち付けた後、冷たい泥水の中へと叩き落とされる。
激痛が頭蓋を揺らし、割れた唇から新たな血が泥水へと散った。
だが――少女は、折れなかった。
泥水に両手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、アリアはゆっくりと顔を上げた。
乱れた銀髪の隙間から覗く菫色の双眸が、白銀の炎を滾らせて司祭を真っ向から射抜く。
殴られた側の頬を赤黒く腫らし、血を流しながらも、その眼光はガルニエを一歩後退させるほどの気迫を放っていた。
「……殺しなさいよ。あたしの首を刎ねて、更地のど真ん中にでも晒せばいいわ」
低く、澄み渡る声でアリアが告げた。
「でもね、あたしたちが暴いた真実は消えない。あたしの仲間が……絶対に、あんたたちの思い通りにはさせない!」
「後悔するぞ、小娘が……ッ!」
ガルニエは忌々しげに鉄杖を握り直すと、吐き捨てるように踵を返した。
❖ ❖ ❖
同じ頃、通路を挟んだ別の審問室。
そこでも、粗末な貫頭衣を着せられ、石壁の鎖に繋がれた聖女フィリアが、教会の尋問官と対峙していた。
少女の足元には、かつて彼女を縛り付けていた豪奢な生贄用の祭服の残骸と、首を固定するための分厚い魔導首輪が転がされている。
「……フィリア様。聞き分けのない皇女とは違い、貴女は教会の慈悲の深さを理解しておられるはずだ」
執行司祭補の男が、甘言を弄しながら首輪を拾い上げた。
「教皇猊下がお隠れになった今、民を導く神託を下せるのは貴女しかいない。正式に神聖教会の『至高の聖女』として列聖し、教会の旗頭としてお迎えしましょう。……その代わり、神樹の排液を浄化する生贄の務めへ、おとなしくお戻りいただく」
「お断り、します」
フィリアの声は、静かだった。
だが、その声音には一片の迷いも、震えすら混じっていなかった。
司祭補の手が、宙でぴたりと止まる。
男は信じられないものを見るように、目を細めてフィリアを見下ろした。
かつて典礼院の温室で、死の恐怖に怯え、言われるがままに祈りを捧げていた生贄の人形。
その少女が、今、自分を真っ直ぐに見据えている。
翠玉の瞳の奥に宿る、静謐で、底知れぬ強さを持った光。
男の背筋に、わずかな寒気が走った。
「……な、何を言っているのか分かっておられるのですか? 神樹に命を捧げることこそが、教会が貴女に与えた唯一の存在意義だ! それを拒むなど――」
「あたしは……アリア様たちと出会って、自分の足で歩くことを誓いました」
フィリアは首輪から視線を逸らさず、一語一語を刻むように紡いだ。
「クラリス様を使い潰し、今またあたしを都合のいい身代わりの人形にしようとするあなたたちの嘘には……もう、絶対に屈しません!」
石室の空気が、凍りついたように静まり返った。
司祭補は自らの手先がかすかに震えていることに気づき、己の内に湧き上がった恐怖を打ち消すように、顔を醜く歪ませた。
「……恩知らずの、出来損ないがッ……!!」
激高した男の手が、荒々しく振り抜かれた。
華奢な肩を力任せに突き飛ばされ、フィリアの身体が冷たい石壁へと激しく打ち据えられる。
鈍い衝撃に息が詰まり、貫頭衣の裾が汚水に濡れそぼった。
だが、フィリアは呻き声を呑み込み、壁に背を預けたまま、凛とした瞳で男を見つめ返した。
頬に散った泥を払うこともなく、その視線は一度として床へ落ちることはなかった。
男はその気迫から逃げるように舌打ちを鳴らし、逃げ腰で鉄扉を乱暴に叩き閉めた。
数刻後、審問所の全域に、ガルニエの冷酷な宣告が響き渡った。
『第七皇女アリア、ならびにその一派! 反逆の意志を捨てぬ大逆の徒として、全員、大聖堂最下層――永久浸水牢への単独幽閉に処す!』
(第三節へ続く)




