第三十六話:『教会の檻』 第三節:孤立の檻
分厚い鉄扉が冷徹な轟音を立てて閉ざされ、錠前が何重にも下ろされる重い金属音が響いた。
光は、どこにも届かない。
大聖堂の地下最深部――千年の間、教皇庁が不都合な異端者を闇に葬り続けてきた永久浸水牢。頭上遥か彼方にあるはずの地上の気配は完全に断たれ、漂うのは腐敗した泥と澱んだ汚水の鼻を突く悪臭だけだった。
アリアは、冷たい汚水の中に立ち尽くしていた。
水深は膝下まで達し、粗末な灰色の貫頭衣の裾が汚水を吸い上げて重く足に絡みつく。手首と足首を繋ぐ重金属の呪縛枷が、体内の『蒼血』を麻痺させ、皮膚を通じて芯から熱を奪っていく。
四方を囲むのは、手のひらを滑らせても継ぎ目すら見当たらない、冷徹な一枚岩の石壁。隣の房の様子どころか、指先すら判別できない完全な暗黒が支配していた。
――単独の隔離幽閉。
顔を合わせることも、触れ合うことも許されない。百年前、疑心暗鬼と謀殺によって引き裂かれた先代勇者たちと同じように、己の孤独に押し潰されろという、教会の陰湿な呪縛。
だが。
ガチャン、と。石壁の向こう側から、鎖を叩きつけるような硬質な音が響いた。
「……おいおい、ずいぶんと陰気臭いホテルに案内してくれたじゃないかい!」
その声を聞いた瞬間、アリアの強張っていた顔がパッと明るくなった。
暗黒の中で誰にも見えなくとも、菫色の瞳に鮮烈な輝きが宿り、腫れた頬の痛みも忘れてパーッと花が咲くように表情をほころばせる。アリアは冷たい汚水を跳ね上げて壁へと駆け寄り、濡れた石肌に両手を当てた。
「無事かい、アリア!」
壁の向こう側で、リンが荒々しく鼻を鳴らす気配がした。アリアの声を聞いて内心の張り詰めた恐怖が吹き飛び、心の底から安堵しながらも、格闘家は八重歯を剥き出しにして、いつもの不敵な笑みを浮かべてみせる。
「あいつらの顔、見たかい? 更地にされて、穴倉の中でガタガタ震えてやがった! あたしらをこんな水たまりに放り込まなきゃ眠れないくらい、ビビり散らかしてる証拠だよ!」
負傷の痛みなど笑い飛ばす、無二の悪友の痛快な啖呵。その直後、別の方向の壁際から、呆れ果てたような溜息混じりの乾いた声が届いた。
「全くです。……これほどの厚みを持つ花崗岩の隔壁で分断しなければ僕たちを制御できないとは、数理的にも彼らの恐怖心は極限値に達していますね」
暗闇の中、ルシアンが淡々と紡ぐ論理的な言葉。絶望など欠片もない。四肢を縛られ、泥水に浸かりながらも、少年たちは一歩も退いていなかった。
「うん……! あたしたちの完全勝利よ! みっともなく怯えてるのは、あっちの方だわ!」
アリアは壁へ向けて、力強く叫んだ。
「あたしたちは負けてない! 誰も死なせなかった! こんな泥水の中で終わるタマじゃないわよ……絶対にここを出て、あの司祭の鼻っ柱をへし折って、みんなで海へ行くんだから!!」
「あったりまえだよ! あたしの拳が錆びる前に、早く迎えに来てよね、アリア!」
「脱出経路の暗渠の勾配は、すでに僕の頭の中で三通り計算し終えています。いつでもどうぞ」
水路を伝う仲間たちの確かな声。離れ離れにされても、姿が見えなくても、互いを信じる糸は一本たりとも切れていなかった。
その声を、最も深い独房の底で聴いていた少女がいた。
聖女フィリア。冷たい泥水に浸かり、粗末な麻布の貫頭衣の胸元を、華奢な指先でぎゅっと握りしめていた。
暗闇の中、フィリアはゆっくりと、自らの足で泥水を踏みしめて立ち上がった。震えは、もう止まっていた。
かつては誰かの背中に縋りつき、教会の鳥籠の中で、生贄としての運命にただ怯えて泣くだけだった人形。
だが――耳の奥には、今も温かな仲間たちの声が満ちている。
アリアが背中を預けてくれた温もり。リンが手渡してくれた大衆食堂の肉串の味。ルシアンが「君を絶対に消費させない」と誓ってくれた知性の光。
(……あたしは、もう守られるだけの生贄じゃない)
少女の胸の奥深く、神樹の排液を浄化し続けてきた原初の奇跡の核が、カチリと音を立てて殻を破った。
何者にも縛られない、自分自身の魂のための祈り。泥水に浸かった足元から、微かな、だが決して穢れることのない翠玉の燐光が、静かに波紋を描いて広がり始める。
(待っていてください、アリア様。リン様、ルシアン様……)
鳥籠の鉄格子を見上げるフィリアの翠玉の瞳に、静かな、圧倒的な覚醒の光が宿っていた。
(今度は――あたしが、みんなを救い出してみせます)
欺瞞に満ちた白亜の都は崩壊し、四人は地の底の檻へと閉じ込められた。だが、新世代の足掻きは、まだ何一つ終わっていない。
灰色の暗黒の底で、真の聖女の産声が、いま静かに響き渡ろうとしていた。
(第三十六話 完 / 第三十七話『鳥籠を破る百合』へ続く)




