第三十六話:『教会の檻』 第一節:冷たい泥濘
冷気が、皮膚の奥深くまで染み通っていた。
アリアは、冷たい泥と濡れた灰の重みの中で、わずかに指先を痙攣させた。
瞼を持ち上げようとするが、まつ毛にこびりついた砂と血の塊が重い。
視界の端に映るのは、月明かりすら届かない瓦礫の割れ目と、大水門ハッチの重厚な鋳鉄の黒錆だった。ハッチは固く閉ざされたまま、微動だにしていない。
地下外郭放水路へ退避させた何十万もの民衆は、確かに守り抜かれたのだ。
「……っ……」
呼吸をするたびに、胸郭の骨が軋みを上げて激痛を走らせる。
身につけていた白藍の跳躍装束は、先刻の爆風と摩擦熱によって無惨なまでに引き裂かれていた。
純白のケープフリルは跡形もなく吹き飛び、両肩や脇腹の装甲布は焼け焦げて脱落し、泥水に浸かった四肢には無数の生々しい裂傷が刻まれている。体温を保つ防具としての機能は、完全に失われていた。
数メートル先で、崩落した大理石に半身を埋もれさせていたリンが、呻き声を漏らしながら泥濘に手をついた。
「……いってぇ……。生きてるかい、みんな……」
リンの赤銅色の髪は灰にまみれ、両腕の『ギア・ナックル』からは完全に蒸気が抜けて冷え切っていた。そのさらに後方、瓦礫の窪みで倒れ伏していたルシアンが、割れたアナライザー・モノクルを泥の中に落としながら、震える手でフィリアの肩を揺り動かしている。
「フィリア……気付け薬を……いや、ワンドのマナ回路が完全に焼き切れています……!」
「う……ん……ルシアン様……アリア様……」
フィリアの薄紅色の髪も泥水に浸かり、胸元の偏光クリスタルは光を失って濁っていた。
四人全員が、己の命の残滓をすべて使い果たし、指一本動かすことすら覚束ない極限状態。
その静寂の底へ、硬い革靴が泥を踏み荒らす複数の足音が響いてきた。
瓦礫の隙間から差し込んだのは、魔導ランタンの冷たく陰惨な青白い光条。
現れたのは、漆黒の典礼服の上に重装甲の胸当てを着込んだ一団――教皇庁直属、異端審問特務隊。
更地化の執行中、地下深くの特権シェルターへ逃げ込んで生き延びていた、教会の残党兵たちだった。
「生存者を確認。……間違いありません、第七皇女アリア、ならびに謀反の徒どもです」
特務隊の隊長とおぼしき男が、冷淡な声で背後へ報告を上げる。救命の毛布も、温かな医療手当の道具もない。男たちの手にあるのは、分厚い魔導阻害金属で鋳造された、無骨な【呪縛鎖】と拘束杭だった。
「……あんたたち……」
リンが泥を吐き捨て、八重歯を剥き出しにして睨みつけた。
「更地化のときは穴倉に震えて隠れてたくせに……敵がいなくなった途端、ずいぶんと威勢がいいじゃないかい……ッ!」
「黙れ、賤民の野良犬が」
先頭の兵が吐き捨てるように言い放ち、手にした魔導スタンロッドを無防備なリンの腹部へと容赦なく突き立てた。青白い電流と衝撃波がリンの小柄な体躯を打ち揃え、格闘家は声も出せずに泥水の中へと崩れ落ちる。
「リンッ――!」
アリアが叫び、泥を掴んで前へ這い出そうとした。
だが、全身の筋繊維が焼き切れた肉体は、数センチ進むことすら拒絶する。
特務隊の隊長が、アリアのすぐ傍らに転がっていた白銀の抜き身――『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』を見下ろした。主の手を離れてなお、刃こぼれ一つなく冷徹な美しさを放つ刀身。隊長は下卑た笑みを浮かべ、泥に汚れた革靴の爪先で刀身を小突いた後、鉄の手甲で柄を乱暴に鷲掴みにして拾い上げた。
「ほう……国家を破滅へ追いやった犯罪者の分際で、随分と立派なものをお持ちですな、殿下」
「それに……触るな……ッ!」
アリアの菫色の瞳が、怒りの白銀の燐光を宿して男を射抜いた。
老鍛冶ムラサメが魂を削り、仲間たちと守り抜くために打ってくれた刀。
それを、安全地帯に引きこもっていただけの卑劣漢に汚らわしい手で値踏みされること自体が、耐え難い屈辱だった。
だが、特務隊の男たちは嘲笑を浮かべ、無慈悲に作業を進めていく。リンの両腕から緋金剛のギア・ナックルが強引にボルトごと外され、ルシアンの手からは真鍮のアストロラーベ・ワンドが蹴り飛ばされて回収された。フィリアの【風のワンド】も、折らんばかりの力で奪い取られる。
「第七皇女アリア、リン、ルシアン、聖女フィリア。……貴様ら四名を、国家反逆および魔王軍通敵の現行犯として拘束する」
重金属の鎖が、アリアの両手首へと冷酷に巻きつけられた。皮膚が焼き焦げるような音を立て、体内にわずかに残っていた『蒼血』のマナ循環が、暴力的な封殺呪詛によって強引に遮断される。激痛に息を呑むアリアの背後で、ルシアンとフィリアにも同様の枷が打ち込まれ、二人の呻き声が泥濘に沈んだ。
「連れて行け。……典礼院の地下審問所へ」
四人は泥まみれのまま、瓦礫の斜面を引きずり倒されていく。見上げた空には、帝都を更地に均した魔王軍の影はもうどこにもなく、冷たい星海の潮光だけが、灰色の世界を無言で照らし出していた。
(第二節へ続く)




