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『勇者を謀殺した帝国に、ハッピーエンドなどいらない』  作者: 千石 かしる


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第三十五話:『白亜の崩壊』 第三節:レクイエム

 立ち込めていた純白の粉塵が、冷え切った夜風に吹かれて静かに流れていく。

 そこにあったのは、もはや神聖帝国の中枢ではなかった。

 天を突く大聖堂の威容も、千年の栄華を誇った白亜の皇宮も、貴族たちが蓄財を競い合った豪奢な石造建築群も、そのすべてが水平の彼方まで平らに押し潰されている。

 地表を均一に覆うのは、水分を奪い去られて風化した白い灰と塩の粉末。

 見渡す限り起伏の存在しない、どこまでも平坦で無機質な白い荒野。

 その中心に、レンは一人佇んでいた。

 青年が地面へ深く突き刺さっていた『黒骸の断罪柱』に右手を添えると、重金属の柱は音もなく引き抜かれ、重力を無視して背後へと自律浮遊の定位置へ戻った。

 エルの魔導リールが刻んでいた高周波の唸りは止まり、乾いた金属の余韻だけが静寂の中に吸い込まれていく。

 空中に展開された星詠族の魔導通信が、青白い幾何学の輪を成して耳元で展開した。

 老総参謀オディロンの、恭しくも抑揚のない声が響く。


『レン様。帝国中枢、主要中枢区画の完全更地化を確認いたしました。……大水門ハッチの直下、地下外郭放水路に逃げ込んだ民衆、およびハッチを防護して昏倒した新世代の勇者たちは生存しておりますが、いかがなさいますか』


 レンの表情筋は、ミリ単位すら動かない。

 死人の能面のまま、白灰の積もった荒野の端――崩落した瓦礫の陰で微弱な息を繋いでいる少女たちの影を一瞥した。


「……放置しろ」


 平熱の、冷たく澄み切った声だった。


「瓦礫を退ければ、あいつらは自分の足で歩き出す。これ以上は、俺たちの作業範囲ではない」


『御意に。……全軍、灰翅族の旗艦へ帰還を開始させます』


「ああ。……東へ戻る」


 通信の光輪が淡く弾けて消え、荒野には再び完全な静寂が訪れた。

 上空を見上げれば、かつて白亜の街を覆い隠していた神樹の人工葉群は消え失せ、天蓋結界の向こう側に広がる外海『星海』の暗い潮光が、冷たい月の光のように降り注いでいる。

 レンは黒外套の裾を払うと、禍々しい装飾の中で唯一異彩を放つ、腰の小さな古びた革ポーチへと左手を伸ばした。

 震えることもなく、丁寧に開かれたフラップ。

 取り出されたのは、一本の擦り切れた木製ルアーだった。

 粗削りな木肌に、不器用ながら愛らしいタッチで描かれた黒い瞳。

 百年前、泥濘の川べりで火を囲んでいた時、隣に座っていた少女が微笑みながら絵の具で描き込んでくれた、世界に一つだけの形見。

 青年は、その小さなルアーを、胸元の心臓真上――『真紅の魔核(ブラッド・ステラ)』の冷たい輝きの上へと、そっと重ね合わせた。

 その瞬間。

 硬く閉ざされていた記憶の澱が、鮮烈な光となって脳裏を満たした。

 ――レン、見て! あたしが作った最高傑作の魔導リールよ! 世界中のどんなデカい魚も、これで釣り上げてみせなさい!

 工房の煤けた匂いの中、大きな丸眼鏡を押し上げながら、満面の笑みで胸を張る魔導技師エレノア。

 ――おいおい、また飯の前に道具の手入れか? ほら、座れよレン。今夜の獲物はダンカン特製の塩焼きだぜ。

 無骨な巨躯を揺らし、愛用の金砕棒を壁に立てかけながら、温かな焚き火の前に大皿を置く重騎士ダンカン。

 ――レン……あなたと出会えて、あたし、本当の海が見たくなったの。魔王を倒したら、二人で遠い海へ行こうね。

 冷え切った夜、七色のペンダントをぎゅっと握りしめ、自分だけに見せてくれた聖女クラリスの、春の陽だまりのような優しい微笑み。

 四人で囲んだ、泥臭くも温かな飯の味。

 確かにそこにあった、守るべきはずだった小さなハッピーエンド。


「……終わったぞ、クレア」


 荒野の冷気に、青年の掠れた呟きが溶けていく。


「お前の海を遮る欺瞞の壁は……平らに均した」


 世界という巨大な障害物を、冷徹に、予定表通りに解体し終えた達成感。

 復讐と更地化の土木作業を完璧に執行したというように、男の口元が、わずかに、不敵な弧を描いて歪んだ。

 吹き抜けていた夜風が、ふと凪いだ。

 物音ひとつしない、完全な静寂。

 だが――。

 感情の起伏を示す表情筋をすべて削ぎ落とし、百年間ピクリとも動かなかったはずの「死人の能面」。

 その冷え切った青年の右の目尻から、溢れ出た一筋の透明な雫が、頬を静かにつたっていった。

 ポロリと。

 零れ落ちた涙の滴が、足元に積もった純白の灰を、小さく濡らす。

 男は自らの頬を濡らした液体の正体に気づくことすらなく、ただ無言のまま、平らに均された荒野の彼方を見つめていた。

 黒外套を夜風にはためかせ、青年は一人、灰の海に沈む白亜の都の墓碑銘(レクイエム)を聴いていた。

挿絵(By みてみん)


 ▼▼▼


 その遠く背後。

 粉砕された大理石の瓦礫と、白い塩灰の山に埋もれた大聖堂の地下深く。

 微かな摩擦音とともに、崩れかけた瓦礫の隙間が押し広げられた。

 黒い典礼服の裾を引きずり、陰惨な光を宿した瞳が、昏倒して倒れ伏すアリアたちと、傍らに転がる白銀の神刀を闇の底から捉える。


「……見つけたぞ、反逆者の皇女め。神刀ともども、教会の檻に繋いでくれる」


 教皇庁の残党たちの歪んだ手が、意識を失った白銀の少女へと音もなく伸びていた。


(第三十五話 完 / 第三十六話へ続く)


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