第三十四話:『更地化の執行』 第二節:円弧の一閃
大聖堂前広場を支配していた空気の張力が、一瞬にして極限まで引き絞られた。
レンの右手の五指が、わずかに弾かれる。
目に見える光も、術式の詠唱もない。
だが、アリアたちの肌を切り裂くような鋭利な殺気が、空間そのものを格子状に歪ませて殺到した。 不可視の極細鋼糸による空間切断――『百式断髄』の変形面制圧。
触れただけで四肢を両断し、生体信号を断ち切る絶対の死の網。
「散開ッ!」
アリアの号令が飛ぶより早く、後衛のルシアンが地を蹴っていた。
右目のアナライザー・モノクルが青い数理幾何学を高速投影し、大気中のわずかな圧力変化と張力のベクトルを瞬時に割り出す。
「前方、水平および斜め四十五度! 不可視の切断線が計十二条! リン、右三の交差点を叩きなさい!」
ルシアンがアストロラーベ・ワンドを旋回させ、前衛の足元へ『風の加速回廊』と、糸の軌道をわずかに逸らす『幾何学偏向障壁』をミリ秒単位で滑り込ませた。
「言われなくてもッ!!」
リンが『瞬歩・飛燕脚』を炸裂させた。
小柄な体躯が石畳の上を低空で滑空し、ルシアンが示した座標――虚空の何もない一点へと、躊躇なく両腕の『ギア・ナックル(緋金剛・砕霊甲)』を突き出す。 調律歯車が過熱した蒸気を吹き上げ、大地の重厚さを宿した青銅琥珀の芯と、研ぎ澄まされた蒼気功が拳から解き放たれる。
至近距離からの浸透打撃。
空間を走っていた不可視の鋼糸の結節点へ、衝撃波が内側から透過した。
目に見えぬ糸が激しく振動し、ピンと張り詰めていた張力が粉々に霧散する。
「フィリア、防壁を!」
「はいっ!」
散った糸の残滓から立ち上る、血液と水分を腐食させる黒赤の呪詛。 その毒気に対し、フィリアが【風のワンド】を胸元に抱き込み、清らかな翠玉の燐光を全方位へと放った。
『聖域結界』。
若草色の光のドームがリンとルシアンの全身を包み込み、侵入しかけた脱血の呪詛を無害な光の粒へと浄化していく。
「……ほう」
レンの能面のような口元から、冷ややかな息が漏れた。
かつて汽水域エスチュアリーで遭遇した時の、荒削りで脆かった少年少女たちではない。
己の死角を完璧に補い合い、現場の物理知に数理と神聖術を融合させた、完成された前衛連携。
だが――レンの歩みは止まらない。
青年は左手を軽く払った。
背後に自律浮遊する『黒骸の断罪柱』が、重力を無視して横倒しに旋回する。 外殻を覆うダンカンの金砕棒の装甲が鈍く黒光りし、リンが放った衝撃波の余波を、まるで巨岩が小波を弾くように無造作に相殺した。
その直後、レンの中指が真っ直ぐにアリアの眉間を指した。
中指【貫の糸】。
硬化させた針状の不可視糸が、大気の摩擦熱で一条の陽炎となって音速を突破する。
生体の神経と動脈を直接刺突し、心肺を一撃で締め落とす、アングラーの外科的絶対急所穿刺。
回避不能の刺突線。
ルシアンの幾何学障壁すら貫通し、少女の額へと吸い込まれようとしたその瞬間――。
アリアは、退かなかった。
直線の突きを受け止めようとも、力任せに打ち払おうともしない。
老鍛冶ムラサメの言葉が、アリアの全身の骨と筋肉を貫いていた。
――水というものは、真っ直ぐに突き出すものじゃない。円を描き、弧を滑らせてこそ、万物を抵抗なく受け流すのだ。
アリアは体幹を極限まで沈み込ませ、流れる水のように上半身をしならせた。
腰の『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』の柄を握る右手が、美しい円弧を描いて鞘から滑り出る。 抜刀。
白銀とサファイアの波頭が、虚空に完璧な円を描いた。
摩擦係数をゼロにする片刃の反り。
アリアの放つ『蒼血』の燐光を纏った神刀の刃先が、迫り来る【貫の糸】の側面へと、触れるか触れないかの絶妙な角度で滑り込む。
弾くのではない。 受け流し、円の軌道へと巻き込み、運動エネルギーを円周の外側へと逃がす。 神速の刺突糸が、レガリアの刃文の上を滑らかに滑走し、そのままアリアの首筋をわずか数ミリ逸れて後方の石畳へと突き刺さった。
そして、円弧の残心そのままに――アリアの刃が、糸の根元を撫でるように一閃した。
硬質な破断音。
極限まで張り詰めていた張力がぷつりと失われ、両断された糸の端が、虚空へほどけるように霧散する。
「……っ!?」
百年間、感情を殺し続けてきた魔王の漆黒の双眸が、初めてわずかに見開かれた。
直線の鉄で自滅したはずの小娘の剣が、自らの不可視の糸を受け流し、切断した。
その刃文の輝き、淀みない水の太刀筋、そして少女の菫色の瞳に宿る、決して折れない白銀の炎。
「言ったはずよ、レン!」
刃を翻し、アリアが一歩踏み込む。 白藍の跳躍装束が風を孕んで舞い上がり、神刀レガリアが再び青い燐光を帯びて唸りを上げた。
「あたしたちは……あなたを止めて、誰も死なせない!!」
(第三節へ続く)




