第三十四話:『更地化の執行』 第三節:断罪の杭
石畳を蹴ったアリアの神刀が、青白い燐光の軌跡を引いて閃いた。
首を狙う一閃ではない。
レンの右腕、禍刻の十指魔手甲の関節部――不可視の糸を繰り出す生体機構の急所へ向け、円弧の刃先が正確無比に滑り込む。
だが、レンの反応速度は人間の限界を遥かに超越していた。
踏み込んだアリアの足元、その石畳のわずかな凹凸へと、レンの左手の親指が不可視の糸を打ち込んでいた。
親指【結の糸】。
大地の重力座標とアリアの踏み込み速度を逆算し、軸足を絡め取って前衛の推進力を殺す絶対の引っ掛け。
アリアの身体が、不可視の抵抗に捕らわれてわずかに制動をかけられる。
「アリア、あぶねぇッ!」
背後から飛び出したリンが、アリアの腰布を左手で強引に引き戻した。
その勢いのまま、入れ替わるように前に出たリンが、右足の『ギア・グリーブ(緋金剛・飛燕具足)』を虚空の糸へ向けて跳ね上げる。
踵のリコイルキャンセラーが激しく火花を散らし、張り巡らされていた親指の糸を力づくでへし折った。
「ルシアン、退路の確認は!?」
「完了しました!」
後衛でアストロラーベ・ワンドを旋回させていたルシアンが、青白くなった顔で叫んだ。
右目のアナライザー・モノクルのレンズが、地下水路へと続く避難経路の生体マナ反応を捉えている。
「大聖堂前広場にいた市民たち、全員が地下外郭放水路の防空区画へ退避を完了しました! 広場に残っているのは、僕たちとあの男だけです!」
「……よくやったよ、眼鏡!」
リンが額の汗を拭い、荒い息を吐きながら八重歯を剥き出しにして笑った。
市民の退避完了。
守るべき背後を確保したことで、四人の迎撃陣形は完全な自由度を取り戻していた。
だが――レンの佇まいは、なおも揺るぎ配すらなかった。
青年は、切断された中指と親指の糸の残滓を冷徹に見下ろした。
そして、視線をアリアたちへと戻す。
「……時間を稼ぎ、民を逃がしたか」
感情の起伏を示すことのない、死人の能面。
だが、その漆黒の双眸の奥底で、何かが静かに軋んだ。
仲間の死角を補い、泥にまみれて拳を振るう格闘家。
机上の空論を捨て、現場の生き残りのために数理を紡ぐ魔術師。
恐怖を呑み込み、他者の痛みを癒やすために無心で祈りを捧げる少女。
そして、誰一人見捨てまいと、傷だらけになりながら先頭で刃を構える白銀の勇者。
その姿は、あまりにも――。
かつて、名もなき泥濘の川べりで火を囲み、硬い魚の骨を外しながら笑い合っていた、四人の姿に重なりすぎていた。
あの日、すべてを懸けて守り抜いたはずの、泥臭く温かなハッピーエンド。
そして祝勝晩餐会の夜、自らの手から零れ落ち、二度と戻らない灰へと変わった光。
ドクン、と。
レンの心臓真上に埋め込まれた『真紅の魔核』が、胸骨を突き破らんばかりに激しく脈動した。
激痛のような熱。
それは悪意の疼きではない。
失われたものへの痛切な哀悼と、目の前の新世代が放つ眩い光に対する、魂の悲鳴だった。
「……壊さなければならない」
レンの唇から零れ落ちたのは、絶対零度の氷が内側から砕け散るような、低く掠れた囁きだった。
「お前たちが……あの日の俺たちに、似ているからこそだ」
レンが両手を広げた。
背後に自律浮遊していた全長2.5メートルの『黒骸の断罪柱』が、重力を完全に逆転させて直立する。
青年はその漆黒の重金属柱の中央を、禍刻の十指魔手甲でがっしりと鷲掴みにした。
そして――大聖堂前広場の石畳の真ん中へ向けて、無造作に突き立てた。
ズシン、と。
広場全体が震動した。
大理石の石畳を深々と貫いた断罪柱の基部から、深紅の血管のような亀裂が、蜘蛛の巣のように全方位へ向けて走り出す。
外殻を覆うダンカンの金砕棒の装甲が赤熱し、その内部深奥から、乾いた金属の回転音が響き始めた。
チチチチチッ――!
エルの超高精度魔導リール。
生前、エレノアがレンのために仕立て上げた最高傑作のドラグ機構が、限界を超えた高回転で鳴動している。
暴走する怨念の調律器。
大地を流れる地脈のマナと、大気中に満ちる水分、そして神樹イグニス・アルボルが蓄えてきた生体エネルギーが、断罪柱の芯材――古代樹の釣り竿へと、猛烈な勢いで強制逆流し始めた。
広場の大気が、目に見えて乾燥していく。
先刻まで溢れていた神水の水たまりが、一瞬で干上がり、白い塩の結晶へと変わる。
大理石の石柱が水分を失ってひび割れ、風化するように白い粉末となって崩落していく。
レンの右手の薬指が、冷酷に握り込まれた。
薬指【涸の糸】――天災魔導『万象涸渇(大赤潮)』。
戦場全域の生物と大地から、水分と血液、そして生命マナを根こそぎ吸い上げ、すべてを白い灰の荒野へと変貌させる、最凶の更地化魔導。
「な……マナの吸入速度が、理論限界値を突破しています……!」
ルシアンがアナライザー・モノクルを押さえながら絶叫した。
幾何学数式が赤色に反転し、レンズにヒビが入る。
「これ、広場だけじゃない! 帝都全土の地盤ごと、全部吸い殺す気だッ……!」
リンが両腕のギア・ナックルを構え直すが、大気中のマナが涸渇し、蒼気功の練成すら急速に霧散しかけていた。
逃げ場はない。
断罪柱を中心として広がる死の赤潮が、数秒後には皇宮も、大聖堂も、白亜の街並みすべてを粉砕し、平坦な灰の海へと沈めようとしている。
「フィリア、リン、ルシアン――!!」
アリアの鋭い叫びが轟いた。
少女は迷うことなく、仲間の前へと立ち塞がった。
白藍の跳躍装束の裾を翻し、大地へ深く爪先を食い込ませる。
『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』。
その白銀とサファイアの刀身を両手で構え、己の体内の血管を流れるすべてのマナ――初代聖帝の原初無属性『蒼血』を、限界を超えて刀身へ注ぎ込んだ。
アリアの菫色の瞳が、青白い神聖な燐光に染め上げられる。
「みんな、あたしの後ろへッ!!」
アリアの全身から吹き上がったのは、清浄なる水の奔流。
『無垢なる聖域』。
何者にも染まらぬ白銀の光のドームが、神刀の切先から展開され、迫り来る深紅の涸渇波を真っ向から受け止める。
赤と青、百年の憎悪と新世代の誓いが、白亜の都のど真ん中で激撃した。
大気が軋み、空間が悲鳴を上げる。
すべてを更地に均さんとする魔王の一撃が、いま、帝国そのものを破滅の底へと引きずり込もうとしていた。
(第三十四話 完 / 第三十五話へ続く)
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