第三十四話:『更地化の執行』 第一節:問答の拒絶
黒紫色の巨大な質量が、神樹大聖堂の前広場へと急降下した。
冥淵飛竜ベルゼファル。
全長50メートルを超える漆黒の巨躯が、大理石の石畳を爪先で激しく削りながら着地する。
巻き起こる猛烈な下降気流が、先刻ルシアンが放った神水の水飛沫と広場を満たす黒煙を一瞬で四方へと吹き飛ばした。
巨竜の頭頂、頑強な黒鱗の上に直立していた黒外套の青年が、重力に引かれることなく静かに石畳へと舞い降りた。
魔王 レン。
青年の一歩が石畳を踏みしめた瞬間、広場の空気が完全に凍りついた。
熱と水分が急速に奪われ、白大理石の表面がパリパリと乾いた音を立てて白い霜に覆われていく。
感情の揺らぎを完全に排した「死人の能面」。
漆黒の双眸は光を反射せず、その胸元の心臓真上には、世界で最も哀しく透き通る『真紅の魔核』が静かに冷たい紅を放っていた。
背後に自律浮遊する全長2.5メートルの『黒骸の断罪柱』が、重力を歪めて低く唸りを上げている。
水浸しの石畳を踏み越え、白藍の跳躍装束を纏ったアリアが、真正面から一歩前へ進み出た。
背後には、拳の調律歯車を噛み合わせるリン、アストロラーベ・ワンドを構えるルシアン、そして静かに祈りを捧げるフィリア。
新世代勇者パーティーが、完全な迎撃陣形を敷いて立ちはだかる。
「……退け、小娘」
レンの唇から零れ落ちたのは、感情の一切交じらない、絶対零度の平熱の声だった。
「そこは既に、解体予定区域だ。……障害物ごと、すべて平らに均す」
「止まって、レン!」
アリアの声が、氷点下の静寂を切り裂いて響き渡った。
少女は腰の『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』の柄に手を掛けたまま、その菫色の瞳で、眼前の魔王を真っ向から射抜く。
「あたしたちは四大門閥をすべて巡った! ヘパイストスの第1次工房跡も、アレキシアの禁書庫も、アイゼンガルテンの防壁も……全部この目で見てきたわ!」
アリアの脳裏に、旅路の果てに暴いてきた帝国の血塗られた真実が鮮烈に蘇る。
兵器への転用を拒み、仲間を逃がすために工房ごと散った魔導技師エレノア。
追撃の騎士団を前に、愛用の金砕棒を杖にして立ったまま絶命した重騎士ダンカン。
そして、国と教会に寿命を搾取され、最果ての水辺で息絶えた聖女クラリス。
「百年前の祝勝晩餐会で、国があなたたちを裏切った理由も……クラリス様が生体透析でどれほど残酷に使い潰されたかも、全部知った! この国が、あなたたちからどれほど多くの光を奪い去ったのかも……!」
アリアの胸が激しく上下し、白藍の装束の胸元をぎゅっと握りしめた。
その美しい菫色の瞳には、堪えきれない大粒の涙が滲み、潤んでいた。
同じくこの国に裏切られ、偶像として使い潰されかけた新世代の勇者だからこそ、眼前の青年が背負ってきた百年の絶望と孤独が、胸を締め付けるように痛かった。
「だから……もう止まって! この街の地下水路には、今も何も知らされずに怯えて逃げ惑っている民が大勢いる! ……百年前の罪を知らない人たちまで、あいつらの道連れにして更地にすることが……あなたの愛した人たちの望んだことなの……っ!?」
涙を滲ませながら絞り出された悲痛な叫びが、大聖堂の広場に木霊した。
フィリアが胸元のクリスタルを両手で抱きしめ、痛ましそうに、だが怯むことなくレンを見つめる。
ルシアンはモノクルの奥で悔しげに奥歯を噛み、リンは拳を震わせながら、凍てつく空気を纏う青年の佇まいを睨み据えていた。
だが――レンの表情筋は、ミリ単位すら動かなかった。
怒りも、嘲笑も、動揺すら浮かばない、完全なる無。
青年は腰の擦り切れた革ポーチ――百年前、クラリスが優しい瞳を描き込んでくれた木製ルアーに、そっと指先を一瞬だけ触れさせた。
「……知ったところで、何が変わる」
淡々と、事実だけを告げるような声だった。
「お前たちの国は、百年前にあいつの命を食い潰し、今また別の子供を生贄にして虚飾を買い支えようとした。……それがこの世界の構造だ」
レンの視線が一瞬だけフィリアをかすめ、そして白亜の大聖堂、遥か彼方にそびえ立つ神樹イグニス・アルボルの巨幹へと向けられた。
「侵略もしない。略奪もいらん。……クレアに見せるはずだった海を遮る障害物を、すべて平らに押し潰す。ただの土木作業だ」
「レン……!」
「民を逃がすなら、好きに逃がせ。……だが、俺の予定表は止まらん」
レンが右手を前方へと掲げた。
禍刻の十指魔手甲が生体金属の鋭い軋みを上げ、指先から大気へと、目に見えない無数の殺戮の極細鋼糸が編み込まれていく。
問答は終わった。
目の前にいるのは、言葉で説得できる人間ではない。
愛する者のために、世界という障害物をすべて均し尽くすまで歩みを止めない、絶対の天災。
アリアは溢れかけた涙を手甲の甲で乱暴に拭い、迷いを完全に振り払った。
腰の『蒼水神刀 アルビオン・レガリア』の柄を握り、親指で純銀の鍔をわずかに押し上げる。
シャリ、と。
澄み渡る金属の摩擦音が、広場の凍てつく空気を切り裂いた。
「……退かないわ」
アリアが腰を深く落とし、流れる水のような居合の構えを取る。
「あなたを止めて……あたしたちは、誰も犠牲にならない未来を掴み取る!」
白銀の勇者と、漆黒の魔王。
帝都アルシリアの中心で、二つの因果が真っ向から激突する。
(第二節へ続く)




