第三十一話:『鉄壁の城塞』 第一節:アンブレイカブル
雲海の上層、成層圏との境界に浮かぶ灰翅族の超大型旗艦。
凍てつく風が吹き抜ける舳先に、黒外套を纏った魔王レンはひとり立ち尽くしていた。
眼下に広がる純白の雲の絨毯を見下ろす双眸には、生きている人間の宿す生気はなく、感情の起伏を完全に削ぎ落とした死人の能面のような静けさだけが湛えられている。
青年が右手に握りしめているのは、全長2.5メートルを超える漆黒の重金属柱――『黒骸の断罪柱』。
自律浮遊し、不可視の魔導糸を編纂する異形の魔杖。
その表面を、レンの黒金に覆われた指先――『禍刻の十指魔手甲』がゆっくりとなぞった。
指腹に伝わってくるのは、滑らかな金属の質感ではない。
何千回、何万回と刃を受け止めたことによって刻み込まれた、無数の細かい傷跡と刃こぼれの凹凸。
その荒々しい感触に触れるたび、漆黒の外殻の奥底に封じ込められた【八角鉄製金砕棒】の芯が、胸元の真紅の魔核と共鳴するように重く微振動した。
ダンカン・ブリッグス。
かつて『不落』と呼ばれ、誰よりも不器用で、誰よりも心根の優しかった大男。
レンの凍りついた思考の底から、100年前の泥臭い記憶が、熱を帯びた煙のように立ち上ってくる。
――帝国東方の寂れた港町、悪臭の漂う裏路地だった。
泥濘の中に転がっていたのは、酒瓶を抱えて鼾をかき、泥まみれになった巨大な図体の男。
帝国軍の重装歩兵小隊長でありながら、上官の「逃げ遅れた平民を囮にして後退せよ」という命令を拒絶し、上官の顎を素手で粉砕して不名誉除隊となった元兵士。
軍からも見捨てられ、街のゴロツキからも石を投げられ、自暴自棄になって死に場所を探していた男の前に、当時18歳だったレンは無言でしゃがみ込んだ。
地面に置いたのは、底の欠けた鉄鍋。市場の解体場でタダ同然で譲り受けてきた巨大な深海魚の頭と骨――いわゆるアラを、路地裏の焚き火で数時間かけてじっくり煮込んだ、白濁した濃厚な汁だった。
「……ああん? なんだ小僧、俺を哀れみに来たのか」
充血した目で睨みつけてくる巨漢に対し、レンはただ木の椀を突き出した。
「骨の周りが一番美味いんだよ。……捨てるのは勿体ねえだろ。食えよ、死に損ない」
差し出された椀から立ち上る、生姜と粗塩、そして魚の濃厚な脂の匂い。
ダンカンは毒づきながらも椀を引ったくり、無様に熱い汁を啜った。
口いっぱいに広がる強烈な旨味と、胃袋の底を直撃する熱さ。
男は荒々しく骨をしゃぶり、軟骨を噛み砕き、最後の一滴まで汁を飲み干すと、泥だらけの袖で目元を乱暴に擦った。
大粒の涙が、煤けた頬に筋を描いて泥の地面へと落ちていく。
「……畜生が。こんな美味いもん食わされたら、今日死ぬわけにいかねえじゃねえかよ……」
鼻をすすり上げる大男を前に、レンは小さく笑った。
「死ぬなよ。明日も釣ってくるからさ」
「……おい小僧。名前は」
「レン。ただの釣り師だ」
「レンか。……よし、決めたぞ」
ダンカンは立ち上がり、仁王のような巨躯を震わせて、路地裏の夜空へ向けて豪快に胸を叩いた。
「俺のこのデカい背中はよ、今日からお前の盾だ。お前が美味い魚を獲って飯を炊くなら、俺がその鍋と焚き火を世界中のどんな理不尽からも守り抜いてやる!」
その言葉に、偽りはなかった。
旅の間、ダンカンは常にパーティーの最前線に立ち続けた。
エルが工房で徹夜して倒れそうになれば無言で背負って運び、クラリスが教会の重圧に怯えて震えていれば、その巨大な掌で頭を撫でて「心配すんな、姫さん。俺の後ろにいりゃあ安全だ」と笑ってみせた。
夜、焚き火の爆ぜる音を聞きながら、ダンカンはよく酒を舐めつつ、ささやかな夢を語っていた。
「魔王をぶっ倒してこの茶番が終わったらよ。俺は街の端っこに、小さな道場付きの孤児院を開くんだ。身寄りのねえガキどもを集めてよ、飯の食い方と、理不尽に負けねえ殴り方を教えてやる。レン、お前は毎日デカい魚を届けてくれ。あいつらに、腹いっぱい美味いスープを飲ませてやりてえんだよ」
「ああ、いいぜ。世界一デカい魚を獲ってやるよ」
「違いねえ! ガキどもが目を丸くする顔が目に浮かぶぜ!」
そう言って豪快に笑っていた男の笑顔。
すべてを賭けて守り抜いたはずの結末は、しかし、帝国の謀殺という名の毒刃によって無惨に叩き潰された。
祝勝晩餐会の夜。
毒を盛られ、追手の手先となった帝国正規軍と騎士団の包囲網の中。
重傷を負ってクラリスを抱えるレンの背後で、ダンカンはたったひとりで立ち塞がった。
手にした『八角鉄製金砕棒』を地面へ叩きつけ、血を吐きながら、男は獰猛な獣のように吠えた。
「行け、レン! 姫さんを連れて走れぇッ!」
「ダン! お前も一緒に――」
「馬鹿野郎! 誰かが残らなきゃ全員ミンチだ! ……行けってんだよ! 俺の背中はお前らを守る盾だって言っただろ! あの日、路地裏で貰った一杯のアラ汁の恩……ここで全部、返してやるよぉッ!」
それが、最後に交わした言葉だった。
振り返った視界の隅。
数十本もの風圧槍、魔導矢、鋼鉄の剣が、ダンカンの巨躯へと容赦なく突き刺さっていた。
肉が裂け、骨が軋み、夥しい血が泥を染めても、男は一歩も引かなかった。
金砕棒を両手で構え、金剛の大盾を胸の前に掲げたまま、追撃の部隊を力任せに薙ぎ払い、足止めし続けた。
そして――すべての刃を受け止めたまま、ダンカンは立ったまま息絶えた。
倒れることすら拒絶し、文字通り『不落の仁王』となって、レンとクラリスの退路を命懸けで守り抜いたのだ。
だが、帝国はその高潔な死すら辱めた。
ダンカンの遺体から生体鉱石の大盾を剥ぎ取り、その技術を東方防衛線の要塞――城塞都市アイゼンガルテンの外郭防壁へと組み込んだ。
仲間を逃がすために命を散らした男の盾を、腐敗した門閥の居城を守るための道具として利用し続けてきたのだ。
「……我が君」
背後から掛けられた低い声によって、レンの意識は冷たい現在へと引き戻された。
跪いていたのは、灰翅族の巨躯の将ヴォルク。
「アイゼンガルテン上空、到達まであと300秒。……下方の大気密度が上昇、都市外郭に展開された『金剛障壁』の反応を確認しました」
レンは手にする断罪柱の外殻から、静かに手を離した。
表面に刻まれたダンの傷跡が、鈍く黒光りしている。
「……ダン。お前が命を賭けて守ろうとしたのは、あんな冷たい石ころの城じゃない」
レンの唇から零れ落ちたのは、絶対零度の呟きだった。
「お前の盾を、泥棒どもに誇らせるわけにはいかない。……あいつの骨を、あの偽りの城塞から拾い上げる」
黒外套を翻し、レンは旗艦の中央甲板へと視線を向けた。
そこには、全身を生体鉱石の装甲で固め、無言の威圧感を放つ異形の重装軍団が整列していた。
先頭に立つのは、骨の仮面を被った大男――六大部族・白骨族長バウル。
「バウル」
「ハッ」
「降下しろ。……防壁を穿ち、あの城塞を平らに均せ」
「御意」
白骨族の歩兵たちが一斉に抜刀し、その装甲を軋ませた。
雲海を突き破り、不落を騙る城塞都市アイゼンガルテンへ向けて、漆黒の先鋒が解き放たれようとしていた。
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(第二節へ続く)




