第三十話:『星海の露顕』 第三節:砕かれる天球
白大理石の壇上、ツェペリン卿の首元に突きつけられた『アルビオン』の切っ先は、微動だにしなかった。
アリアの瞳に宿るのは、冷酷さではない。
弱者を踏み躙り、命の息吹にまで値段をつけて恥じない支配への、凛とした、揺るぎない拒絶の光だった。
「お前の負けだ、ツェペリン卿」
リンが拳の『ギア・ナックル』の熱を冷まし、静かに告げた。
背後には、無力化された天空騎士団親衛隊の兵たちが倒れ伏している。
「息を吸う権利を奪い、神の怒りを騙って民を縛り付ける……そんな歪んだ偽りの空は、もう終わりだよ」
「ルシアン、回線は繋がった!?」
アリアが振り返る。
ルシアンは演壇の主幹魔導端子へアストロラーベ・ワンドの穂先を突き刺し、右目のアナライザー・モノクルの数理光を激しく明滅させていた。
「掌握完了しました……! 全アエリア市民、および地上への神事中継回線を強制バイパス! 主演算室の実測振動データと星海の映像を展開します……!」
観測塔の外郭に据えられた超巨大投射結晶群が一斉に青白い光を天空へと撃ち放った。
雲海を覆い尽くすほどの光の幕が広がり、アエリアの貴族街から下層の排気ドックに至るまで、すべての街区の頭上に、暗青の奈落を横切る【本物の星海の波紋】が巨大な映像となって投影される。
「アリア殿下、拡声通信を開放しました……! 貴女の言葉を……民へ!」
ルシアンがマイクとなる集音水晶をアリアへと向けた。
アリアは深く息を吸い込み、正面を見据えた。
かつて帝都の降誕祭で、己を縛る欺瞞を告発したあの日のように。
少女の凛とした、けれどどこまでも真っ直ぐで温かな声が、都市中の拡声魔導器を通して天空全域へと響き渡った。
『――アエリアのみなさん。私の声が届いていますか。第七皇女、アリアです』
その名が響いた瞬間、上層の広場で神事に跪いていた貴族たちも、中層の商人たちも、そして下層の鉄骨街で息を潜めていた工員たちも、一斉に天を仰いだ。
『あのアリア様だ……!』
『帝都を追われ、真実を暴くために戦っていると噂の新星の勇者様が……!』
『みなさんが今見ている空の向こうの光景は、幻でも神の怒りでもありません』
アリアは言葉を紡ぐ。声の震えを抑え、一人ひとりの胸へ届けるように。
『この世界を包んでいるのは、冷たくて、果てしなく深い本物の海です。ツェペリン家は、その海が天蓋を押す音を「神罰」だと偽り、みなさんから息を吸うための空気代を奪い続けてきました。……けれど、生きるために呼吸をすることは、誰かに許されるものじゃない! 命は、門閥の利益のためにあるんじゃない……ッ!』
少女の叫びが、何万もの人々の胸を貫いた。
『もう、偽りの天球に怯えて首をすくめるのはやめてください。空気にかけられた首輪を外して! 私たちは、こんな嘘に満ちた檻の世界を終わらせるために戦います!』
「……今です!」
ルシアンがワンドを振り抜き、下層のインフラ制御系統を一斉に開放した。
大地を震わせる轟音とともに、第1から第12までの主排気弁と加圧コンプレッサーの全ロックが吹き飛ぶ。
上層に独占されていた清冽で濃密な酸素の奔流が、下層の薄暗い通路へと一気に雪崩れ込んでいった。
配管から溢れ出す本物の空気を胸いっぱいに吸い込み、下層民たちが涙を流して抱き合う。
『アリア様……! アリア様が、空気を返してくれたぞ……ッ!』
歓声と解放の叫びが、天空都市の底から天頂へと突き抜けていった。
その歓声と真実の光を、遥か西の空から見つめる影があった。
成層圏の境界線。
純白の雲海を裂いて飛翔する、魔大陸六大部族・灰翅族の大船団。
その旗艦の舳先に、黒外套を羽織った青年――魔王レンが静かに立ち尽くしていた。
通信魔導波を拾い上げた拡声器から、風に乗ってアリアの演説が流れてくる。
そして、天空都市アエリアの上空に広がる、巨大な星海のホログラム。
「……我が君」
背後に控える灰翅族の将ヴォルクが、低く問いかけた。
「アエリアの支配中枢はすでに機能を停止。民衆の手で門閥のインフラが解体されつつあります。……更地化の爆撃、決行しますか」
レンは無言のまま、胸の真紅の魔核――ブラッドステラを左手でそっと押さえた。
その死人の能面のような双眸の奥に、わずかな感情の揺らぎが走る。
(……お前が、均したのか。アリア)
暴力による更地化ではなく、真実を暴くことで民自身に首輪を外させた。
もはや、この天空都市に自分が焼き払うべき「欺瞞の支配構造」は残されていない。
「……進路を変更する」
レンの静かな声が、風の中に溶けた。
「標的はもはやここにはない。……東方防衛線、城塞都市アイゼンガルテンへ向かう」
巨大な魔導艇の船首が、緩やかに旋回を始めた。
更地化の嵐は天空都市を素通りし、次なる大地へとその針路を向けた。
観測塔の外郭テラスで、アリアは西の空を見つめていた。
遠ざかっていく漆黒の気配。
あの人が攻撃を取りやめ、針路を変えたことを、少女の直感は確かに捉えていた。
「……止まってくれた。でも、あの人はまだ歩みを止めていない」
空の向こうにある星海の重圧。
あの人が天蓋を叩き割る前に、追いつかなければならない。
「待っていなさい、レン。……世界を海に沈めさせる前に、私たちが絶対に止めてみせる!」
風の都市を解放した新世代の勇者たちは、次なる戦いの地、東方の名君が待つアイゼンガルテンへと歩みを進めるのだった。
(第三十話 完 / 第三十一話へ続く)




