第三十一話:『鉄壁の城塞』 第二節:アイゼン公爵
飛空艇ストーム・ペレルが着陸した瞬間、跳ね上がったのは華やかな粉塵ではなく、重たく湿り気を帯びた黒い泥土だった。東方防衛線の要衝――【土の門閥】が統べる城塞都市アイゼンガルテン。
艇の昇降タラップを駆け下りたアリアの目に飛び込んできたのは、これまで通過してきたどの門閥都市ともまるで異なる、異様なまでの無骨さだった。
ヘパイストスの黒煙と異臭を放つ軍需工場群。
ヴェネツィア・アルシアの白大理石に飾られた拝金の宮殿。
アエリアの空気にまで首輪をつけて私腹を肥やす硝子細工の空中庭園。
そうした欺瞞の装飾が、この街には塵ひとつ存在しない。視界を埋め尽くすのは、幾重にも連なる黒鉄の防壁と、泥と砕石を突き固めた分厚い傾斜土塁。街を行き交う市民たちの身なりは粗末な麻布の作業着ばかりだったが、その瞳にアエリア下層のような絶望の濁りはなく、誰もが背筋を伸ばし、泥まみれのスコップや槌を手に足早に持ち場へと向かっていた。
「……信じられないわ」
アリアが腰の『アルビオン』の鞘に手を添え、周囲を見回しながら呟いた。
「ここが本当に、四大門閥の拠点なの……? 貴族の屋敷どころか、豪奢な看板ひとつ見当たらないじゃない」
「ええ。アイゼン公爵家は、建国以来この東方国境の防衛を一手に担ってきた武門の家系です」
ルシアンが右目のアナライザー・モノクルの焦点を合わせ、巨大な外郭防壁の構造を読み取りながら歩調を合わせた。
「中央の教会や貴族院からは『泥啜り』『教養なき土豪』と蔑まれてきましたが、彼らは帝都から支給される防衛予算のほとんどを着服せず、すべて防壁の補修と領民への配給に注ぎ込んできた。……数字上、不正蓄財の兆候は皆無です。それどころか、この土塁の傾斜角……地盤の沈降圧力を均等に分散させる、極めて高度な実践土木工学に基づいています」
「へえ……腐りきった帝国にも、まともな骨のある奴がまだ残ってたってわけかい」
リンが両腕の『ギア・ナックル』の留め金を指先で締め直しながら、小気味よさそうに笑った。
その視線の先――防壁の基底部で、ひときわ太い怒号が響いていた。
「馬鹿者! 楔の打ち込みが甘い! 外殻の目地が1ミリでもズレれば、魔獣の突進衝撃が内層の生体鉱石に偏って伝わるぞ! もう一度油圧ジャッキを噛ませ、水平を取り直せ!」
「は、はいっ、閣下!」
怒声を張り上げていたのは、擦り切れた革の作業着の上に分厚い胸甲を括り付けた、灰褐色の短髪の巨漢だった。自ら泥まみれの巨大な鉄槌を握り、兵士や工員たちと肩を並べて巨石の固定作業に汗を流している。
その男こそが、東方防衛総司令にして土の門閥当主――アイゼン公爵その人だった。
「……閣下、お客様です! アエリア方面より、例の飛空艇が!」
兵士の報告を受け、アイゼン公爵は鉄槌を地面に突き立て、荒々しく汗を拭った。泥に汚れた顔を上げ、アリアたち四人を鋭い眼光で射抜く。その視線は品定めするような陰湿さはなく、戦場に立つ武人が敵味方を見定める直截な迫力に満ちていた。
「噂の新星勇者様のお出ましか。……帝都で教皇庁に中指を立て、ヘパイストスやアエリアの偽善をぶち壊して回っていると聞いたが、こんな泥臭い前線に何の用だ」
威圧的な言葉の割に、公爵が差し出した手板には、粗末な木椀に盛られた麦飯と、塩を振っただけの蒸かし芋が並んでいた。
「食うか? 生憎と、貴族連中が好む舌の肥えた菓子も、気の利いた葡萄酒もねえ。兵も民も、俺も、毎日これを食って壁を直してる」
「……いただきます」
アリアは躊躇うことなく木椀を受け取り、冷めかけた麦飯を一口頬張った。噛み締めるごとに、素朴で力強い麦の甘みと香ばしさがじんわりと口いっぱいに広がる。
少女の菫色の瞳がぱっと輝き、ふう、と温かな息を零した。
「……すごく、美味しいです。噛めば噛むほど味がして……力が湧いてくるような味がします」
皇宮の着飾った料理ではなく、大地の上で生きる人々が食べてきた本物の食事。気取らず、心から美味しそうに頬を緩めるアリアの姿を見て、アイゼン公爵の厳つい口元がわずかに緩んだ。
「……ハッ、いい食いっぷりだ。皇宮の温室育ちと聞いていたが、ちゃんと泥の味を知っているらしい」
「閣下、単刀直入にお伝えします」
アリアは椀を置き、引き締まった表情で公爵を見据えた。
「魔王軍の先鋒が、ここアイゼンガルテンを目指して進軍しています。アエリアへの攻撃を取りやめたレンは、東方の防衛線を直接突破するつもりです」
「知っている」
公爵は吐き捨てるように短く応じた。
「先刻、斥候から報告が入った。……六大部族がひとつ、白骨族の重装軍団が南下していると。帝都の教皇庁に援軍要請の魔導通信を送ったが、返ってきたのは『持ち堪えよ、神の加護があらんことを』という紙切れ一枚だ。……反吐が出る。あいつらは昔からそうだ。自分たちの玉座が脅かされなければ、前線の命など何万人死のうと痛痒も感じねえ」
公爵の拳が、防壁の石材を強く叩いた。鈍い衝撃音が、硬質な鉱石の唸りとなって足元を駆け抜けていく。
「腐った帝国なんざ、魔王に一度叩き潰されちまえばいいとすら思うさ。……だがな、アリア殿下。この壁の内側には、何十万もの民が暮らしている。泥水啜って、今日を生きるために必死に壁を築いてきた人間たちがいるんだ。中央の豚どもが憎いからといって、こいつらを見殺しにして逃げ出すわけにはいかねえんだよ」
その言葉に、リンが一歩前へ進み出た。
「……アンタ、いい目をしてるね。気に入ったよ」
「あん? 威勢のいい小娘だな。その腕の具足……ヘパイストスで作られた緋金剛か」
「ああ。あたしらの仲間が命懸けで残してくれた、大事な装備さ。……ねえ公爵、さっきアンタが言った『生体鉱石』ってのは、この壁の中に埋まってるのかい?」
リンの問いに、公爵は重い沈黙ののち、頷いた。男は四人を促し、防壁の最深部――基部を支える巨大な地下回廊へと足を踏み入れた。
薄暗い回廊の突き当たり。頑丈な鉄格子で守られた台座の上に、鈍い青銅色に脈動する、巨大な結晶が鎮座していた。まるで生き物の心臓のように、かすかな熱と鼓動を帯びた古代の鉱石。
「これこそが、我が都市を百年間支え続けてきた不落の核――【生体鉱石】だ」
公爵が静かに語り始める。
「百年前、初代勇者パーティーの一員だったダンカン・ブリッグスという豪傑が、魔大陸の深淵から命懸けで持ち帰ったものだ。……奴は軍を追われた荒くれ者だったが、誰よりも仲間を愛し、最後まで誰ひとり見捨てなかった本物の漢だったと聞く」
ダンカンの名が出た瞬間、リンの息が微かに止まった。
「帝国の公式記録では、初代勇者たちは魔王を討ち果した後に名誉の殉職を遂げたと美化されている。……だがな、当時の当主だった我が祖父の覚書には、まったく違う真実が残されていた」
公爵の目が、苦渋に満ちて細められる。
「奴らは魔王を倒した祝勝晩餐会の夜、帝国の手で謀殺されたのだ。仲間を逃がすためにたったひとりで刃を受け止め、仁王立ちで絶命したダンカンから、帝国騎士団がその大盾を強奪し、我が家に『防衛に使え』と下賜してきた」
「……強奪、ですって……!?」
フィリアが口元を押さえ、息を呑んだ。
「そうだ。奪った盾から鉱石を剥ぎ取り、この防壁の核に埋め込んだ。……卑劣な裏切りで奪われた盾だと知りながら、その力にすがって生き延びている己の不甲斐なさに、俺は毎晩胸を焼かれる思いだったよ。だが、この生体鉱石がなければ、東方から押し寄せる魔獣の群れから民を守り切れなかったのも事実だ。……俺はな、ダンカンの魂にすがりつきながら、その罪ごとこの壁を背負ってきたんだ」
公爵は台座の生体鉱石に、ゴツゴツとした掌をそっと重ねた。
「だからこそ、魔王軍が来ようが退くわけにはいかねえ。……この街を均させるわけにはいかねえんだ」
その背中に、リンの拳が震えた。緋金剛の『ギア・ナックル』の内部機構が、生体鉱石の脈動に呼応するように、微かに熱を発している。
誰かを守るために、泥を啜りながら立ち続けた男の魂。その未練と祈りが、今もこの冷たい石の壁の中で息づいている。
「……壊させないよ」
リンが静かに、だが鋼鉄よりも硬い決意を込めて言った。
「アンタの覚悟も、この壁に眠るその人の想いもさ。……絶対、誰にも無駄にさせやしない」
地下回廊を満たす、張り詰めた静寂。アリアたちと公爵の間に、確かな信頼の絆が結ばれたその時だった。
カラン、と頭上遥かな見張り台から、鈍い真鍮の鐘の音がひとつ響いた。続いて、二打、三打。規則的な乱打音へと変わっていく警戒警報の鐘。
「……来たか」
公爵が顔を上げた。回廊の外から駆け込んできた伝令兵が、肩で息をしながら膝を突く。
「ほ、報告! 東方成層圏より、急激な大気の冷却を確認! 気圧が急降下しています!」
足元の石板から、微かな、しかし内臓を揺らすような重低音の唸りが伝わってきた。地響きではない。天空から巨大な質量が空気を切り裂いて急降下してくる際に生じる、大気の断末魔。
「全兵、外郭防壁へ配置につけ!」
公爵が鉄槌を担ぎ、地下回廊の出口へと駆け出した。
「アリア殿下、行くぞ! この壁が砕けるか、奴らの骨が砕けるか……勝負の時だ!」
アリアは力強く頷き、『アルビオン』の柄を握り直した。城塞都市アイゼンガルテンの頭上を、暗雲のような漆黒の影が覆い尽くそうとしていた。
(第三節へ続く)




