幕間 貴婦人の誤算
「ただいま、戻りました」
港区の霜月邸に、一人の女性が戻ってきた。
プラチナブロンドにショートボブの美しい容姿は、見間違えるはずがない。
「ヴィクトリアじゃないですか。首尾はいかがでしたか?」
メイドのジェーンは、労うような笑みを浮かべる。
「社畜がとても優秀でした」
その言葉を聞いたジェーンは首を傾げた。
「ラーメンに入れる具材が優秀なのですか?」
「それは絶対に違います。すごく疲れているので許してください」
「はあ。奥様に伝えて来ますので、応接室でお待ち下さい」
ジェーンはヴィクトリアから荷物を受け取る。
そして応接室に案内した。
☆
「奥様。失礼致します」
エレーナの自室でノックをするが、返答がない。
「奥様?」
最近、エレーナの様子がおかしいと思っていたジェーン。
返答がないことで、焦りが生じていた。
「奥様!? 奥様!!」
主への懸念が作法を上回る。
「失礼します!」
ドアノブに思い切り力を加えるジェーン。
バキンとノブが悲鳴を上げて破損した。
そのまま勢いよく、ドアを開ける。
そこには椅子に座ったまま、どこを見ているのか分からない表情のエレーナがいた。
「どうして皐月は出ないのかしら。約束していた指輪がまだ届かないというのに。もう連絡はとれないというのに」
「奥様?」
机の上に、見たことがないタブレットが置かれている。
画面は表示されておらず、バッテリーが切れている状態だった。
学術院謹製のタブレットには専用の充電器が必要だった。
今までは雄介に連絡をすれば、すぐに手配がされていた物だ。
「わたくしを裏切って、この世界で生きていけると思っているのかしら。そうだわ、ゼロを使って攫って差し上げましょう。そしてレッドラインの人体実験に使って差し上げますわ」
「奥様! 奥様!!」
「……あら、ジェーン。どうしましたか?」
「奥様、お気を確かに!」
「わたくしは何も変わりはありませんよ。珍しいわね、ジェーンが言いつけを破るなんて」
「部屋のノックはしました。ですが奥様の返事がありませんでしたので、万が一を考え入室致しました」
「そうですか。わたくしにはノックなど聞こえませんでしたが。まあ、いいでしょう。どうしたのですか? 部屋にきたということは、急ぎの用事があったのでしょう」
「ヴィクトリアが戻ってきました。応接室で待っています」
「そうですか。旧月家の秘術は手に入ったのかしら」
「それが、シナチクが優秀と」
「シナチクとはなんですか?」
「ラーメンという料理で使う食材です。奥様には縁のない言葉かと」
「そうですか。それでシナチクが優秀というのは、なにかの暗号なのでしょうか」
「ヴィクトリアは違うと言ってます」
「なんですか、それは。埒があきませんね。応接室に向かいましょう」
「お手間をおかけします」
椅子からゆっくりと立ち上がって、エレーナは歩き出した。
ジェーンもそれに付き従って、応接室に向かった。
☆
「おかえりなさい。ヴィクトリア」
「ロスファー夫人。戻りました」
応接室のソファに、二人は向かい合って座った。
「ところで首尾はいかがでしたの?」
「……申し訳ございません。秘術の刻印は入手できませんでした」
「……そう。口惜しいこと」
「ご情報を頂いた睦月楓に接触はできましたが、まるで歯が立ちませんでした。あの男――いえ、社畜というのは何者なのでしょう。ニンジャの別称でしょうか。訓練場では負け無しでしたが、自信がなくなりました」
「それは夢などではなくって?」
「はい。夢なら良かったのですが。よろしければ応援を呼んで下さいませんか」
「応援を呼んだとしても、皐月と連絡がとれないわ。それだと学術院に入れないでしょう」
「奥様、皐月家は当主が変わりました。それと学術院はオープンになっています。審査はありますが、誰でも入れるようになっています」
「どういうことですの!?」
エレーナが珍しく声を荒らげた。
優雅に保たれていたその表情に明確な動揺が走る。
「わたしも拘束されていたので詳しくは分かりません。ですが大まかな情報になります――」
その時、呼び鈴が鳴った。
ジェーンが玄関に向かう。
「最近、巌様も顔を見せなくなっているというのに、どなたが来られたのでしょうか」
エレーナは紅茶を両手で支えて、一口つけた。
突然、勢いよく応接室のドアが開く。
「お、お、お、おくさま!」
「どうしたのです、ジェーン。はしたないですよ」
「そっそおそおおそおおそそお」
「貴族たるもの、どのような状況でも優雅でなくてはなりません。もう一度、修行してらっしゃい」
「こっちの部屋にいたのですね。お義祖母様」
聞いたことがない声が、ドアの向こうから響いた。
ヴィクトリアに、緊張の色が走る。
「初めまして。月隠の魔術師、睦月楓と申します」
飄々とした態度で応接室に入ってきたのは、伝説の中華系素材。
シナチク、もとい元社畜の無能だった男。
月隠の魔術師と呼ばれる睦月楓だった。




