幕間 コンサート
【楓視点】
向陽サービスに行った翌日。
俺達はコンサートホールに足を運んでいた。
港区にある、世界的に音響の良さで知られるホールだ。
社畜時代、こういう場所に来ようなんて思ったこともない。
学術院にもホールは存在したが、興味がなかったので一度も行かなかった。
如月舞踏会の時、凛と約束をしていなかったら、こうして訪れることもなかっただろう。
チケットの手配は、全て洸介君の方でやってくれた。
「最高の席を用意したので楽しんで来て下さい。と言っても全て網走に任せましたけど」
あの皐月雄介が有能と言った男に、お膳立てしてもらえたのだ。
最高の席というのは、誇張でも何でもないと思う。
隣を歩く凛の装いは白いワンピース。
最近は、緩やかな洋服を着ることが増えてきた。
まだ見た目は分からないが、できるだけ締め付けないように心がけているらしい。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
手をつなぎながら、エントランスに向かう。
心なしか凛の足取りが軽いような気がした。
☆
ホールは既に開場していて、中に入れる時間になっていた。
チケットをエントランスで渡して、パンフレットを受け取る。
渡された冊子には演目が書かれていた。
本日の演目は、マーラーの交響曲第六番と、ベートーヴェンの第五番『運命』らしい。
オーケストラは、イギリスの名門フィルハーモニー楽団ということだった。
下の方には、主催と協賛している企業が名を連ねている。
「楓さん、どうしました。難しい顔になっています」
「ああ、なんでもないよ。どうも最近、老眼が進んできたみたいで」
「もう! 冗談で誤魔化さないでください」
「ゴメン、ゴメン」
その時、立っていた警備員が目に入った。
スーツ姿で、見た目は普通の会社員に見える。
だが、その視線や動作には隙がない。
何より、俺はその男を知っていた。
(俺は平穏な生活を送りたいだけなんだけどな)
素早く無属性魔法を展開して、スマホを操作する。
ボタンを押した感覚はあるが、音が鳴ることはない。
「どうして魔法を使ったんですか?」
「何のことか分からない」
「……帰りに教えて下さいね」
俺は撮った写真を皐月本社に送信した。
あとは有能なヤツらに任せておけばいいだろう。
「覚えていたらね。そろそろ席に行こうか」
「もう!」
再び手をつなぐと、俺達は席に向かった。
☆
案内された席は、二階のセンターブロック席だった。
ステージ全体を見下ろせる、まさに特等席だ。
場内が暗転し静寂が満ちる。
指揮者が姿を現すと、大きな拍手がホールを包んだ。
最初の曲は、マーラーの交響曲第六番。
指揮棒が振り下ろされると同時に、重々しい行進のリズムが響き渡った。
第一楽章。
低弦が刻む足音のような主題は、まるで巨人が一歩一歩、確実にこちらへ近づいてくるような重量感を持っていた。
俺は思わず身を固くする。
隣を見ると、凛が目を閉じて音の粒を一つ一つ堪能している。
金管が咆哮し、弦楽器の群れがそれに応えるように盛り上がっていく様は、巨大な獣が息を吹き返す瞬間のようだった。
第二楽章は、一転して穏やかな緩徐楽章だった。
木管の柔らかい旋律が、荒々しかった第一楽章の余韻を静かに拭い去っていく。
凛の肩から、静かに力が抜けているのが分かった。
第三楽章のスケルツォは、再び緊張感を取り戻す。
不安定な拍子が、聴く者の呼吸のリズムをわざと狂わせようとするかのようだった。
そして第四楽章。
長大なフィナーレの中で、有名なハンマーの一撃が轟いた瞬間、ホール全体の空気が揺れた。
凛の手が、そっと俺の腕に触れる。
曲が進むにつれて音楽そのものが崩れ落ちていくような不穏な運命感が漂い、最後には全ての音が静かに息を引き取るようにして終わった。
拍手が沸き起こる中、俺は隣の凛を見た。
彼女の瞳が、いつもより少し潤んでいるように見えた。
☆
休憩を挟んで、後半はベートーヴェンの交響曲第五番『運命』だ。
誰もが知るあの四つの音――ダダダダーンという運命の動機が鳴り響いた瞬間、会場全体の空気が一気に張り詰めた。
第一楽章は、短い動機が執拗に形を変えながら押し寄せてくる、まさに運命に追い立てられるような緊迫感に満ちていた。
第二楽章は、変奏曲形式の穏やかな歌が続く。
緊張から解き放たれた弦の旋律が、まるで束の間の休息を許してくれているようだった。
第三楽章では再び不穏な足音が忍び寄り、そのまま切れ目なく、あの有名な第四楽章へと突入していく。
長調へ転じた瞬間の輝かしい咆哮に、俺は思わず息を呑んだ。
暗闇から光へ突き抜けていくような音の奔流。
凛の手が、いつの間にか俺の手をしっかりと握りしめていた。
演奏が終わった瞬間、割れんばかりの拍手が会場を包んだ。
凛も夢中で手を叩いていた。
それを見て来てよかったと心の底から思えた。
☆
エントランスから出ると、凛が興奮気味に話しかけてきた。
「学術院の楽団と全く違いました」
「そうかな。俺には正直、違いはよく分からなかったけど」
「違うんです! 音の重なり方が全然違うんです。あんなに大勢の人が同じ呼吸をしているみたいに聴こえるなんて、初めてでした」
凛は珍しく、興奮を隠しきれない様子で続けた。
両手を胸の前で組んで、その瞳は星でも見つけたように輝いている。
「それに、あの運命の旋律。ずっと胸の奥に残っています」
「それは良かった。また来ような」
「はい! 絶対に、また来ましょうね」
隣で機嫌よく歩く凛の横顔を、いつまでも見ていたいと思った。




