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第九話 選択肢

 路地を出た宮司さんは、割れたサングラスを外し、上着の内ポケットに仕舞い込んだ。

 素顔を晒したまま、俺の顔をまじまじと見つめてくる。

 街灯の下でようやく見えたその素顔には、殴られた頬の腫れがはっきりと浮かんでいた。


「今夜はアパートに帰らない方がいいわ」


「――え?」


「あんたの住所、もう割れてると思っておいた方がいい。今夜だけでもホテルに泊まりなさい」


 当たり前のように告げられたその一言に、俺は言葉を失った。

 今夜だけ、という言葉の軽さと、その裏に潜む事態の重さの落差が、上手く飲み込めない。

 自分の生活圏が、見知らぬ誰かに把握されているかもしれない。

 そう考えるだけで、背筋を冷たいものが伝った。


 だが、さっきまでの光景を思い返せば、否とは言えなかった。


「……分かりました」


 渋々頷くと、宮司さんは満足そうに頷いた。

   ☆


 路肩に停めてあった車に乗り込むと、宮司さんはすぐにスマートフォンを取り出し、慣れた指使いで何処かへ連絡を入れ始めた。

 エンジン音に紛れて聞こえてくるのは、聞き慣れた宮司さんのいつも(・・・)の声。窓の外を流れる夜景を眺めながら、俺はただその横顔を眺めていた。


「はい、今すぐ二部屋お願い。ええ、いつもの通りでいいから」


 用件を短く伝えると、宮司は電話を切った。

 手際の良さに、こういうやり取りに慣れているのだと嫌でも気付かされる。

 もしかしたら、こんな(こと)が過去にも幾度となくあったのかもしれない。

 そう思うと、自分がその「いつも通り」の一つに過ぎないのだという事実が、妙に重く胸にのしかかった。


「学術院って、結局どんな場所なんですか」


 沈む思考を紛らわす為に、俺は気になっていた事を尋ねてみた。

 霜月さんから一度説明を受けたはずなのに、あの時はまるで頭に入ってこなかった。

 応接室の重い空気と、霜月さんの指先から立ち上った白い冷気の衝撃ばかりが記憶に残っていて、肝心の内容はどこかへ吹き飛んでしまっていた。

 今なら、少しは呑み込めるかもしれないと思った。


「……特別行政区。つまり国が魔力回路持つ人達を保護する為に用意した街ね」


 宮司さんはハンドルを握ったまま、前を見据えて続ける。

 信号待ちの赤い光が、その横顔を一瞬だけ照らし出した。


「衣食住は全部国持ち。生活費だって支給される。魔法が使えなくたって、快適に暮らせるようになってるわ」


「魔法が使えなくても、ですか」


「そう。それに学術院にはスサノオって学校があってね、覚醒した魔力回路持ちはそこで魔法を学んでいく事になる」


 俺は窓の外に視線を戻した。

 流れていく街灯の光が、やけに遠い世界の出来事のように感じられる。

 魔法を学ぶ、という言葉の響きだけが、子供の頃に読んだ物語の一節のように浮ついて聞こえた。

 剣を持ち、魔法を放つ画面の中の主人公たちの姿が、脳裏をよぎる。

 あれは、ただの空想だったはずなのに。


「一年以内に魔法が使えるようにならないと、生活の水準が落とされる決まりもある。ただ、あんたはもう魔法の兆候が出てるみたいだから、そこは心配いらないと思うわ」


 あの薄い膜のことを言っているのだろうか。

 実感の湧かないまま、俺は小さく頷くことしかできなかった。

 信号が青に変わり、車が静かに動き出す。

 窓に映る自分の顔は、いつもと変わらず冴えないままだった。

 それなのに、(ほんにん)が置かれている状況だけは、昨日までとまるで違っていた。


   ☆


 案内された建物は、都心の一等地に聳える超高級ホテルだった。

 エントランスに足を踏み入れた瞬間、天井の高さと磨き上げられた大理石の床に気圧される。

 シャンデリアの光が床に反射して、安物のスニーカーの爪先まで妙に明るく照らし出しているように感じられた。

 こんな場所に足を踏み入れる機会など、これまでの人生で一度もなかった。


 最上階、と告げられて通された部屋は、四畳半一間の自室が何個も収まりそうな広さだった。

 窓の向こうには、都心の夜景が一望できる。

 ベッドの寝具は皺一つなく整えられ、テーブルには果物の盛られた籠まで用意されていた。

 壁に掛けられた絵画一枚だけでも、月給の何ヶ月分なのだろうと、場違いなことを考えてしまう。


「ここでゆっくり休みなさい。何かあったらフロントに言えば繋げてくれるから」


「あの、宮司さんは」


「あたしは隣の部屋にいるから、心配しなくて大丈夫よ。それと明日は八時にロビーへ来てちょうだい」


 それだけ言うと、宮司は扉の向こうへ姿を消した。

 一人残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、豪奢な部屋の中を見回していた。


 静けさだけが、やけに重く感じられた。


   ☆


 シャワーを浴びて、ベッドに横たわる。


 柔らかい布団の感触が、今の自分にはどこか場違いに思えた。

 四畳半のせんべい布団とは比べ物にならない寝心地のはずなのに、身体の力がなかなか抜けてくれない。

 真っ白な天井には、当然ながら見慣れたシミなど一つも無い。 

 その事実が、かえって落ち着かなさを助長した。


 天井を見上げながら、最近の出来事を振り返る。

 会社での課長の粘着質な声、病院での検査結果、宮司と凛から聞かされた話、帰り道の襲撃、そして宮司の告白。

 頭の中で、目まぐるしくいくつもの光景が回り続けていた。


 ふと、いつものアパートの天井のシミを思い出す。

 あの見慣れた部屋も、四年前から続けているオンラインRPGも、今頃どうなっているのだろう。

 ゲームの中の主人公たちは、今夜も画面の向こうで誰かを救い続けているのだろうか。

 あのキャラクターたちには帰る場所があって、戻るべき日常があった。

 だが自分には、もうそのどちらもが揺らいでいる。


(あの日常に、俺はもう戻れないのかもしれないな)


 そう思うと、不思議と寂しさよりも先に、諦めに似た感覚が胸を満たしていく。

 十一年勤めた会社への未練が、無いと言えば嘘になる。

 杜撰な仕事も、粘着質な課長も、うんざりする毎日ではあった。

 それでも、そこには紛れもなく自分の居場所があった。

 挨拶程度の付き合いしかない同僚たちであっても、毎朝顔を合わせる相手がいるという事実だけで、どうにか自分を保っていられた部分があったのだと、今更ながらに思い知らされる。


(でも、今のままの生活を続けたら、今度は違う人が巻き込まれるかもしれない)


 同僚の顔が、脳裏を過ぎる。

 挨拶程度の付き合いしかない相手だとしても、誰かが自分の代わりに危険な目に遭う想像は、思いのほか胸を締め付けた。

 近所の住人、コンビニの店員、通りすがりの誰か。

 関わりのある人間ほど、危険は色濃く染み込んでいく。

 もし今夜のようなことが、あのオフィスの中で起きたら――そう考えただけで、腹の底が冷たくなった。


 まぶたが、鉛のように重くなっていく。

 今日一日の疲労が、思考の隙間から容赦なく忍び寄ってきた。


 考えなければならないことは、まだ山積みのはずだった。

 会社への説明、荷物をまとめる算段、アパートの解約、ゲームの課金、誰にどう説明すればいいのか。

 それなのに、意識は抗う間もなく、静かに闇の中へと沈んでいった。


   ☆


 六月と別れて自分の部屋に入ると、あたしは扉に背を預けたまま、しばらく動けずにいた。


 殴られた頬の痛みが、今更になって疼き出す。

 鏡を見る気にもなれず、あたしはソファに崩れるように腰を下ろした。

 それでも、身体を休める前にやることがある。

 痛みを堪えながら鞄から専用端末を取り出し、報告書の作成画面を開いた。


 打鍵する指先が、いつもより鈍い。

 それでも手を止めるわけにはいかなかった。

 今夜起きたことは、局に――いや、霜月流星に、正確に伝えておかなければならない。

 文字を打つたびに頬の傷が疼いたが、その痛みを言い訳にするつもりはなかった。

 自分が独断で仕掛けたことの結末は、自分の言葉で伝えるべきだと思っていた。


 文面をある程度まとめたところで、あたしはタブレットを手に取り、秘匿通話で局長直通の番号へ発信した。

 数コールで、聞き慣れた声が応じる。


「こんな時間に秘匿通話でどうしたんだい、隼斗」


「悪いわね、遅くに」


 声だけは努めて平静を装う。

 だが、電話越しでも隠しきれない疲労が伝わったのか、流星の声のトーンがわずかに変わった。


「何かあったのかい」


「局員を使った計画、失敗したわ。それだけならまだいいんだけど――何処かの組織と思しき連中が割り込んできたわ」


 一瞬の沈黙が落ちる。

 流星の性格からして、驚きを声に出すことは滅多にない。

 だが、その沈黙の長さが、事態の深刻さを物語っていた。

 受話器の向こうで、椅子が軋む微かな音がした。


「六月君に怪我は?」


「大丈夫よ。あの子が――守ったから(・・・・・)


「……そうか」


 言葉を選びながら、あたしは今夜の出来事を順に説明していく。

 六月が使った薄い膜の話、彼が見せた行動、そして自分の身に起きたこと。

 淡々と伝えているつもりでも、声の端々に隠しきれない何かが滲んでいる気がした。

 話し終えた後の沈黙が、いつもより長く感じられた。


「なるほどね。想定(・・)より、動きが早い」


 流星は静かにそう呟くと、しばらく考え込むような間を置いた。


「六月君がどちらの選択をしても、対応できるようにしておく必要があるね。学術院に来るなら受け入れの準備を急がせる。もし拒否した場合は――」


「拒否した場合は、あたしが責任を持つわ」


 言葉を遮るように、あたしはそう告げた。

 流星は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「分かった。君に任せるよ」


 その一言に、安堵とも呼べない、複雑な感情が胸の奥を掠めた。

 信頼されているのか、それとも押し付けられているだけなのか。

 今夜のあたしには、その違いを見極める余裕さえ残っていなかった。


 通話を切ると、あたしは打ちかけの報告書を仕上げ、そのまま局のサーバーへ送信した。

 画面に送信完了の表示が浮かぶのを見届けてから、ようやく肩の力が抜けていく。


 シャワーを浴びながら、あたしはふと、あの薄い膜のことを思い出していた。


(何処かで、見た事がある……)


 温かい湯を浴びながら、記憶の奥底を手繰り寄せようとする。

 だが、輪郭だけが霞んで、はっきりとした形にならない。

 ただ、脳裏に浮かぶのは、遠い昔――まだ幼かった頃、父に連れられて訪れたどこかの屋敷で見た記憶。


 豪華な廊下の壁に飾られた一枚の絵画。

 振袖姿の美しい女の人が、淡く発光する薄い膜に包まれている、そんな絵だった記憶がある。

 あの時、父が何と言っていたのかは、もう思い出せない。

 ただ、あの時の空気の重さと、父の背中の緊張だけは、湯気の向こうに微かに蘇ってくる気がした。


(あれは、確か――)


 思考の輪郭が掴めそうになった瞬間、湯気に紛れるようにその記憶は再び霧の向こうへと引っ込んでしまった。

 あたしは軽く頭を振ると、それ以上の追及を諦めた。

 今は、目の前のことだけを考えればいい。

 そう自分に言い聞かせた。


 シャワーを終え、フリルのついたパジャマに袖を通す。

 柔らかな布地の感触に包まれながら、あたしはベッドに身を横たえた。

 明日からのことを考えると、休める時に休んでおかなければならない。


 目を閉じると、思いのほかあっさりと、意識は眠りの中へと落ちていった。


   ☆


 約束の朝八時、俺はロビーで宮司さんと落ち合った。


 昨夜のことが嘘のように、宮司はにこやかな笑みを浮かべている。

 だが、その笑顔の裏にどれだけのものが隠されているのか、今の俺には少しだけ分かる気がした。


「よく眠れた?」


「……あまり」


 正直にそう答えると、宮司さんは小さく笑った。


「まあ、そうよねえ」


 上質のソファに向かい合って座る。


 窓の外には、朝の光を受けた都心のビル群が広がっていた。

 あの薄暗い路地裏の出来事が、遠い夢のように思えるほど、穏やかな朝だった。

 行き交うホテルの客たちは皆、俺たちのことなど気にも留めずに通り過ぎていく。その何気ない日常の光景が、今はやけに眩しく映った。


 昨夜、眠りに落ちる直前まで考えていたことを、俺はもう一度頭の中で辿り直す。

 会社への未練、周囲を巻き込む恐れ、そして命を狙われたという紛れもない現実。

 三十一年間、大きな決断を迫られる事なく生きてきた自分にしては、驚くほど迷いはなかった。

 答えは、もう出ていた。眠る前から、ずっと。


「宮司さん」


「なあに」


「俺、学術院へ行こうと思います」


 声は思ったよりも、はっきりと出た。

 決意を秘めた自分の言葉に、俺自身が少しだけ驚いていた。


   ☆


 宮司から六月が学術院行きの報告を受けた流星は、局長室の椅子から静かに立ち上がった。


 窓の外にはまだ朝の光が柔らかく差し込んでいる。

 だが、その穏やかな光景とは裏腹に、流星の動きに迷いはなかった。

 すぐさま内線を繋ぎ、内閣府の窓口を通じて向陽サービスへ、六月楓の退職手続きを進めるよう指示を出す。

 表向きの理由は、既に用意されている定型の文言で十分だ。

 長年の運用の中で、こうした手続きはすでに一つの型として確立されている。


 手続きの指示を終えると、流星はデスクに戻り、届いたばかりの報告書に目を通し始めた。

 今年度、特定健康診断によって新たに発見された魔力回路保持者は、百八人。


 そのうち、学術院への保護を了承した者は九十六人。


 そして、行方不明になっている者が、十二人。


 その数字の羅列を、流星はしばらく無言のまま見つめていた。

 窓の外を、朝の光を浴びた鳥が一羽、横切っていく。

 局長室には、それを気に留める者は誰もいなかった。


「――十二人、去年の四倍(・・)か……」


 誰に聞かせるでもなく呟いた声は、静かな局長室の空気に溶けて消えていった。

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