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第八話 想定外

 夜の路地に、獣じみた咆哮が響き渡った。


 六月は闇雲に、しかし迷いのない足取りでスーツの男へと突進していく。

 恐怖など、とうに置き去りにしていた。

 ただ、地面に伏したまま動けない宮司の姿だけが、視界の中心を占めている。

 頭の中では警報にも似た声が鳴り続けていたが、それを聞き入れる余裕はどこにも残っていなかった。


 男の一人が振り返り、突っ込んでくる六月へ腕を伸ばした。

 組み伏せるつもりなのだろう、慣れた動きだった。

 だが、伸びた指先は六月の肩口に触れる寸前で、何かに弾かれたように止まった。


「――は?」


 男の口から漏れたのは、はじめて聞く困惑の声だった。

 今度は両手で掴みにかかる。

 それでも結果は同じだった。

 まるで薄い硝子の壁が六月の周囲を覆っているかのように、指先はどこにも届かない。

 触れる直前、決まって皮膚の表面で弾かれてしまう。

 軽く、それでいて乾いた音が、そのたびに小さく響いた。


 薄く透明な膜が、六月の身体に絡みつくように揺らめいていた。

 ラップフィルムを幾重にも重ねたような、頼りなく、それでいて確かな存在感を持つ膜。

 光を捻じ曲げてぬめるような反射を残しながら、まるで意思を持つ生き物のように六月の輪郭をなぞっていく。

 触れられた覚えもないのに、六月自身の身体の方が、その膜の動きに引っ張られているようにさえ感じられた。


 地面に伏したまま、宮司はその光景を見上げていた。

 腫れ上がった頬の痛みも、口の中に広がる鉄の味も、その瞬間だけは遠くに霞んでいく。

 神々しい、という言葉が頭の中に浮かんだ。

 そして何処かで見た覚えがある光景でもあった。


 だが宮司は、その記憶の輪郭を辿ろうとして止めた。


(今はそれどころじゃないわ)


 目の前でスーツの男と対峙している六月を見た。


(……怖くても飛び込める子だったのね)


 困惑したスーツの男が、掴む動きを捨てて拳を握る。

 それは着地点(もくてき)を変えた動きだった。

 捕らえられないなら、力で捻じ伏せるしかない。――組織の指示は『生きてさえいれば』いいのだ。


 気持ちを切り替えた男は、容赦のない拳を放った。

 鋭い角度で放たれた拳が、六月の肩を捉えた――かに見えた瞬間、薄い膜が六月を護る。

 勢いを削がれた男の腕に自ら掴みかかった。


「――っ!」


 振り解こうと男が腕を振るうと、肩が外れそうなほどの衝撃が六月を襲う。

 だが六月はしがみついたまま離れなかった。

 いま出せる目一杯の力を使って、両腕でその腕を抱え込む。


 恐怖も、痛みも、今の六月には二の次だった。

 これ以上、宮司が傷つくのを見たくない一心だけで、身体を動かしていた。

 頭で考えるよりも先に、身体が動いていた。


 男の表情に、初めて焦りに似た色が滲んだ。

 もう一人が加勢しようと踏み出す。

 膠着状態のまま、路地には荒い息遣いだけが満ちていった。

 街灯の下、二つの影と、それに絡みつく一つの影が、奇妙な均衡を保ったまま静止しているように見えた。


 その均衡を破ったのは、遠くから響いてきたサイレンの音だった。


 徐々に近づいてくる甲高い音に、二人の男が同時に動きを止める。

 表情こそ変わらないものの、視線が交錯した。

 何かを確認し合うような、短いアイコンタクト。

 それだけで意思の疎通は済んだらしい。

 男はスーツを脱いで強引に六月を振り解くと、路地の奥へと駆け出していった。

 足音は驚くほど早く、闇の中へ溶けるように消えていく。

 もう一人も後を追うように、迷いのない足取りでその場を離れていった。


「宮司さん――!」


 六月は膝から崩れるようにして、宮司の傍に駆け寄った。

 サイレンの音は、もうすぐそこまで迫っていた。


   ☆


 俺は倒れたままの宮司さんの肩を、思わず両手で支えていた。

 先ほどの戦闘で心臓がまだ落ち着く気配を見せない。

 手のひらに感じる宮司さんの体温だけが、今この瞬間が現実だと教えてくれているようだった。


「あー、痛たいわあ……」


 宮司さんは口の端から血の滲んだ唾を吐き捨てると、笑うように顔を歪めた。


「魔法が使えたらこんなの、あっという間だったのに」


 宮司さんは軽口を叩きながら立ち上がろうとする。

 だが、膝に力が入らないのか、途中でよろけて再びアスファルトに片膝をついた。

 太い体躯が、その一挙一動のたびに軋むように震える。


「無理しないで下さい」


「大丈夫よ。それよりも――」


 言いかけた宮司さんの表情が、わずかに強張った。

 近づいてくる複数の足音と、赤色灯の光が路地の入り口を舐めるように照らし出す。


「これは不味いわ」


 そう呟いた声には、先ほどまでの余裕はなかった。

 サングラスの割れたレンズの奥で、目だけが忙しなく出口を探しているのが分かった。


「どうしてですか?」


「あたし達って事情が特殊でしょ? 公安の連中とあまり相性が良くないのよね」


 言葉の意味を、俺は正確には理解できなかった。

 だが、この状態で余計な詮索をしている場合ではないことだけは、本能的に察していた。


「そう言う事だったら俺が事情を説明してきます。警察を呼んだのは俺なんで」


 宮司さんは豆鉄砲を食らった鳩のような顔になった。


 何か言い返そうと口を開きかけたが、結局、疲れたように息を吐いただけだった。

 俺はそれ以上の返事を待たず、少し離れたコンビニの駐車場に止まっているパトカーへ向かって歩き出した。


 俺の姿を確認した警察官二人が車から出てくると、名前や生年月日など、いくつかの事務的な質問を投げかけてくる。

 俺は警察に連絡した理由――二人組の黒スーツに追いかけられたこと、暴行を受けそうになったこと、相手はすでに逃走したことを、努めて冷静な声で告げた。

 結局、警察官が周囲を数分確認したが犯人は見つからなかった。


 相手の心当たりを聞かれたが、思い当たる節などあるはずもない。

 ただの通り魔だと思う、と苦し紛れの言葉を返す。

 特に怪我をしているわけでもなかったので、簡単な質問が終わり、警察官二人はパトカーに乗り込み、あっさりと去っていった。


 サイレンの音が、次第に遠ざかっていく。


 人気の失せた路地に戻ると、宮司さんは壁に背を預けて座り込んでいた。

 乱れていた呼吸はすでに整っている。

 サングラスは戦闘の最中に割れてしまったのか、片方のレンズに罅が入っていた。


「戻りました。もう大丈夫だと思います」


「……六月」


 名前を呼ぶ声が、いつもと違った。

 甘さを含んだ、あの粘つくような口調ではない。

 低く、落ち着いた、それでいてどこか疲れの滲んだ声だった。


 俺は思わず息を呑んだ。


「今のあんたは色々、混乱してると思う。悪いんだが、一つだけ謝らせてくれ」


 俺は言葉を返せなかった。

 ただ黙って、言葉遣いが変わった宮司さんを見つめることしかできなかった。

 街灯の光を斜めから受けたその横顔は、これまで見てきた宮司さんとは別人のもののように映った。


「渡した連絡先の名刺、あれは発信器だったんだ。俺があんたを追い詰める為に用意した物だ」


「……え?」


「保護対象を確保する時、大抵の人間は最初は拒否する。だから、追い詰めて選択肢を狭めた方が話が早い時もある。今回は局の人間を使ってあんたを脅そうとした。昨日の帰り道に不審な事があっただろ?」


 頭の中が、ゆっくりと冷たくなっていくのを感じた。

 あの得体の知れない不快感の正体。

 何処かで誰かに見られているようなあの視線。

 すべてが、目の前の男の掌の上で転がされていた結果だったということか。


「――ふざけるな」


 声が震えた。怒りなのか、それとも別の感情なのか、自分でも判別がつかない。

 ただ、腹の底からせり上がってくる熱だけは、はっきりと感じ取れた。


「ああ、分かってる」


 宮司さんは目を逸らさなかった。

 その眼差しの真っ直ぐさが、かえって俺の怒りをどこに向ければいいのか分からなくさせた。


「だが今日のコレ(・・)は俺の計画とは関係ない。あの二人組は完全に想定外だ。俺が用意していたのは、あんたを心理的に追い詰める為の小細工だけで、あそこまでの実力者を差し向けるつもりなんて欠片もなかった」


「……」


「あれは間違いなく本職(・・)の連中だ。今日、俺があんたに助けを求めさせようとしていた矢先に、別の何かがあんたを狙って動いていた。そういうことだ」


 言葉の一つ一つが、じわりと重みを増して胸に沈んでいく。

 信じていいのか分からない。

 だが、宮司さんの表情には、これまで見たどの瞬間よりも嘘のない色が浮かんでいた。

 腫れた頬も、割れたサングラスも、その言葉の裏付けとして無言のまま突きつけられているようだった。


「今夜みたいなイレギュラーに対応出来るのは、学術院の警備だけだ。あんたがこのまま普通の生活を続ければ、また同じことが起きる。今度はもっと巧妙に、もっと確実な形でな。もしかしたら外堀を埋められる可能性もある」


「俺の周りにいる人たちにも、迷惑がかかるってことですか」


「そういうことだ」


 その一言だけで、十分だった。

 会社の同僚、近所の住人、誰でもいい。

 自分の日常に巻き込まれる誰かを想像した瞬間、胸の奥が冷たく縮こまった。

 あの粘着質な課長の顔さえ、今は妙に生々しく脳裏をよぎった。


 宮司さんは壁に手をつき、今度は慎重に立ち上がった。

 俺も反射的に手を貸そうとしたが、その手は静かに退けられた。


「……大丈夫、これくらいで済んでるだけ有り難いわ」

 

 宮司さんは薄く笑うといつもの口調に戻っていた。

 だが、先ほどまでの低く乾いた声を聞いてしまった今、その甘さがどこか作り物めいて聞こえた。

 仮面を被り直すような、その変化の境目を、俺は初めて意識して見てしまった気がした。


 夜風が、割れたサングラスのレンズを微かに揺らす。


「あなたは、学術院に行く方がいいわ」


 そこに滲んだ響きだけは、俺の耳の奥に、いつまでも残り続けていた。


 俺は答えを出せず頷くことも、首を振ることも出来なかった。

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