第七話 誤算
夜の住宅街を見下ろす路肩に、一台の車が停まっていた。
エンジンは切られたまま、運転席には窮屈そうに座る大きな影がある。
百八十三センチの上背に、九十キロの筋肉質な体躯。
剃り上げた頭に、夜だというのに外さないサングラス。
仕立てのいい黒いスーツを纏ったその姿は、傍から見ればその筋の人間にしか見えなかった。
膝の上に置いたスマートフォンを、宮司隼斗はただじっと見つめていた。
時を待たずに着信を知らせる震動音が鳴った。
ディスプレイに浮かんだ名前を一瞥し、宮司は太い指先で端末を耳へ当てて静かに名乗る。
「はあい、宮司さんよ」
『宮司さんっ! た、た、助けて』
電話越しの声は、明らかに上ずっていた。息も乱れている。言葉の端々から、恐怖と混乱がそのまま伝わってくるようだった。想定していたよりも早い連絡だった。宮司はわずかに眉を動かしたが、声には甘さを含ませたまま応じた。
「……落ち着いて聞いてちょうだい」
太い体躯からは想像もつかない、柔らかな口調で返す。
正体を知らない人間がこの声だけを聞けば、目の前の巨漢から発せられているとは、まず信じないだろう。
「今からすぐに迎えに行くわ」
努めて優しく、それでいて相手を包み込むような声を作る。
こういう時、動揺した人間を余計に煽るのは愚策だ。
長年の経験が、そう教えていた。
呼吸を数える間だけ言葉を止め、相手の乱れた息が少しでも整うのを待つ。
『お、俺はどうすれば――』
「アパート近くのコンビ二に向かいなさい。あそこにうちの局員がいるから」
電話の向こうで、荒い呼吸が一瞬詰まる。
信じていいのか迷っているのだろう。それでも、他に縋るものがないことは向こうも分かっているはずだった。
沈黙の中に、微かな靴音と乱れた息遣いだけが聞こえ続ける。
「あたしもコンビニに向かうので安心してくれてもいいわよ」
それだけ告げて、宮司は通話を切った。
狭い車内に、再び静寂が戻る。
☆
誰に話しかけるわけでもなく、宮司は小さく呟いた。
「あの子達、上手くやってくれたようね」
助手席に置いていた二つ折りのタブレットを手に取り、開く。太い指には不釣り合いなほど素早い動作で地図アプリを立ち上げると、画面の中央に小さな光点が規則的に明滅した。
六月に渡した名刺には、髪の毛よりも細いナノサイズの発信機が仕込まれている。
本人が知る由もない、保険のようなものだった。
点滅している位置は、打ち合わせ通りの場所からほとんど動いていない。走れば十分もかからない距離だ。
タブレット画面越しに見るだけならば、何の変哲もない、順調な現場に見えた。
(凛には言えないわねぇ……)
その名前を思い浮かべた途端、胸の奥に小さな痛みが走った。
あの子に話せば、間違いなく止められる。
局員を使い、策を弄してまで対象を追い詰めるようなやり方を、四角四面なあの子が許すはずがない。
分かっていて、宮司はそれでもこのやり方を選んだ。
(全部、あたし一人の判断だ。責任も、あたし一人で負えばいい)
その割り切りだけを胸に、宮司はタブレットを助手席に放ると、大きな体を車から引きずり出した。
冷えた夜気が頬を刺す。
革靴の底が、湿ったアスファルトを重く踏み鳴らした。
街灯の間隔が開いた住宅街を、巨軀に似合わぬ速さで駆け抜けていく。
呼吸は乱れず、地響きにも似た足音だけが夜に響いていた。
☆
コンビニの明かりが遠目に見えてきた頃、宮司はわずかに足を緩めた。
店先の白い光の中に、黒いスーツ姿の男が二人立っている。
仕立てのいいスーツに、体格に見合わぬ静かな佇まい。
何かを探すように、視線だけが左右へ滑らかに動いていた。
周囲に配置しておいたはずの管理局員の姿は、どこにも見当たらない。
異変に気づいたのは、宮司だけではなかったらしい。
二人の男が、こちらへ向けていた視線をふと止める。
表情一つ変えぬまま、互いに短く目配せを交わすと、示し合わせたように踵を返し、建物の陰へと歩調を変えた。
逃げるにしては、あまりにも落ち着き払った動きだった。
(裏で動かしてた子たちが、しくじった……?)
その可能性に思い至った瞬間、宮司の背筋を冷たいものが伝った。
計画通りに進んでいるはずの現場が、いつの間にか別の何かに塗り替えられている。
その感覚は、これまでの任務で味わったことのないものだった。
サングラスの奥で、目つきが一段低くなる。
「――上等じゃない」
考えるよりも先に、足が動いていた。
宮司は男たちが消えた方向へ、迷わず駆け出した。
革靴の音が、夜の静寂を切り裂いていく。
☆
路地に踏み込んだ瞬間、殺気とも呼べる気配が肌を刺した。
狭い路地の奥、街灯の光が届かない暗がりに、先ほどの二人が立っている。
逃げていたはずの足取りは、いつの間にか止まっていた。
まるで最初からそこで待ち構えていたかのように。
宮司が距離を詰めるより早く、黒いスーツの二人が、示し合わせたように左右へ分かれる。
素人ではない。
それだけは、構えを見た瞬間に分かった。
無駄のない重心移動、呼吸の乱れない立ち姿。
プロの気配だった。
「管理局の犬か」
片方の男が、感情の見えない声でそう吐き捨てた。
答える暇も与えられず、もう一人の男が距離を詰めてくる。
「さて、どうでしょうね」
宮司は口の端だけで笑うと、太い腕を軽く構えた。
踏み込んでくる相手の拳を、体格からは想像もつかない速さで躱す。
返す手で放った掌底が、男の顎先を掠めた。悪くない出だしだった。
だが、それも長くは続かなかった。
二人を同時に相手取るには、路地はあまりに狭い。
一人の攻撃を捌いた直後、死角から二人目の蹴りが飛んでくる。
躱しきれず、脇腹に鈍い衝撃が走った。
太い体が、わずかに軋む。
それでも体勢を立て直そうと、足を踏ん張った瞬間だった。
「っ――」
膝の外側を、低く鋭いローキックで打ち抜かれた。
体勢が大きく崩れる。
踏ん張ろうとしたが、タイミング悪くバランスを崩してしまう。
その隙を、もう一人が見逃すはずもない。
鋭いストレートが、防御の間に合わなかった宮司の頬を捉える。
視界が白く弾けた。
膝から力が抜け、大きな体が冷たい地面に叩きつけられる。
耳の奥で、キィンという高い音が鳴り続けている。
口の中に、鉄の味が広がった。
「――てめえら」
地面に伏したまま、宮司の口から漏れた声は、先ほどまでとは似ても似つかない低さだった。
柔らかな口調は消え失せ、ドスの効いた地の声が路地裏に響く。
だが、怒りに任せて起き上がろうとする体は、思うように動かなかった。
二人分の足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
その時だった。
「宮司さんっ!」
路地の入り口に、息を切らした六月の姿があった。
目を見開いたまま、地面に倒れる宮司と、それを見下ろす黒いスーツの男たちを交互に見つめている。
状況を理解しきれていないのだろう。
それでも、それでも足はすでにこちらへ向かって動き出していた。
「来ちゃ、駄目っ……!!」
宮司は掠れた声を振り絞った。
逃げて。
その一言を、最後まで紡ぐことはできなかった。
六月は答えなかった。
代わりに、ぎこちない笑みを浮かべる。
恐怖のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、宮司には判別がつかなかった。
ただ、その表情の奥に、これまで見た事のない光が宿っているように見えた。
これまで押し込め続けてきた何かが、その瞬間に決壊したのだろう。
「うおおおおおおお!!」
獣のような叫び声を上げながら、六月はスーツの男に向かって走り出した。




