第六話 帰り道の襲撃
【六月視点】
目覚まし時計の音で俺は重い瞼をこじ開けた。
昨夜も寝つきが悪かったせいで頭の奥が少し重いような気がする。
布団を撥ね除け、顔を洗い、鏡に映る冴えない顔を一瞥する。
見える目の下の隈も、寝癖のついた髪も、いつもと変わらない。
ただ指先には昨日のあの感触がうっすらと残っている気がした。
(気のせいだ。ただの寝不足だろ)
そう自分に言い聞かせて俺は身支度を済ませた。
☆
オフィスの自動ドアをくぐった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
理由はすぐに分かった。
デスクの向こうから課長がこちらを見てニヤリと笑っていたからだ。
あの粘着質な笑みを見るたびに体が勝手に強張る。
「六月〜。病院に行かなくても大丈夫か〜? 手遅れになるぞ」
朝一番から鼓膜に張り付くような声。
まだパソコンも立ち上げていないというのに、帰りたいと思ってしまった。
周囲の同僚たちが視線を逸らすのが分かる。
関わりたくない、というその態度にはもう慣れている。
だが今日は、いつものように黙って受け流すことができなかった。
「どうして課長が俺の検査結果を知ってんですか!?」
思わず声が大きくなった。
自分でも驚くほどの声量だった。
フロア全体の空気が一瞬だけ止まる。
だが、そんなことを気にする余裕はなかった。
昨日から胸の奥に燻っていた不信感が、堰を切ったように溢れ出した。
課長は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの薄笑いへと戻った。
「知り合いが病院にいるんだよ。うちは色々付き合いがあるんだ。お前が知らないだけでなあ」
あっさりと返される答え。
会社と病院の間に、どんな付き合いがあると個人情報が漏れるというのか。
詮索したところで、まともな答えが返ってくるとは到底思えなかった。
この人にとって、俺の個人情報など雑談の延長線上にあるものでしかないのだろう。
「何なら今から病院に行ってきてもいいぞ。ちょうど泌尿器科のシステムのメンテが入ったばかりだ」
下品な笑いを浮かべながら、課長は一枚の指示書を差し出してくる。
周りからは失笑が漏れた。
(……いつものことだ)
この会社では、課長の機嫌を損ねないことが何よりも優先される。
俺は奥歯を噛み締めながら、それを受け取る。
何か言い返したところで状況が良くなることなど一つもない。
それくらいのことは十一年もこの会社にいれば嫌でも学ぶ。
荷物をまとめ俺はオフィスを後にした。
☆
指示書に書かれた病院は市の外れにある総合病院だった。
電子カルテシステムの保守点検という、いつも通りの仕事内容。
だが電車に揺られている間も、頭の中はどうしても別のことでいっぱいだった。
(何で課長が病院の情報を知ってるんだ。そもそも俺の検査結果なんて、誰からどう漏れるんだよ!)
考えても答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐると回る。
少し気持ちを落ち着けようと、窓の外を流れる街並みを眺めていた。
病院に到着すると情報システム課の担当者に挨拶を済ませる。
サーバールームの端末に向かい、電子カルテシステムのログを確認し、報告書に記載されている不具合の原因を洗い出す。
パッチを適用し動作確認を繰り返す。
目の前の仕事をしている間だけは余計なことを考えずに済んだ。
単調な作業は、今の俺にとって唯一の逃げ場だった。
そんな日に限って作業は思うように進まなかった。
古いバージョンのまま運用されていたシステムは、パッチを当てるたびに別の箇所で不具合が発生して想定していたよりも手間取った。
担当者との追加の打ち合わせも入り確認作業は何度も中断された。
時間はいたずらに過ぎていくばかりで、気が付けば窓の外はとうに夕闇に沈んでいた。
全ての動作確認を終え報告書にサインをもらう。
病院を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
街灯が等間隔に灯り行き交う車のヘッドライトがアスファルトを照らしている。
時刻を確認すると想像していたよりもずっと遅い時間だった。
(もう、こんな時間か……)
俺は業務報告をメールで済ませた。
そして、ため息をつきながら駅への道を歩き出した。
☆
駅までの道はいつもより静かだった。
シャッターの下りた商店街、街灯の下に長く伸びる自分の影、遠くで聞こえる救急車のサイレン。
すでに人通りもまばらな時間帯で、今夜は人気少ないような気がした。
昨日感じた背中に張り付くような視線のことを思い出す。
あれは気のせいだったのだろうか。
それとも――。
(……考えすぎだ。ただの被害妄想だ)
歩く速度が自然と早くなる。
しばらくして俺とは別の足音がついてきている気がした。
硬く響く靴底の音。
その足音に気づいた瞬間、心臓が早鐘を打った。
俺は勇気を絞って振り返る。
――後ろには誰もいなかった。
(ただの気のせいだ。俺に価値なんてないだろ)
自分に言い聞かせて歩き続ける。
けれども、一度芽生えてしまった疑念は簡単には消えてくれない。
緊張で拳を握る手のひらにじわりと汗が滲んだ。
商店街を抜け、人気のない裏路地に差し掛かった時だった。
前方に黒いスーツ姿の男が立っているのに気づいた。
街灯の光を受けいるはずなのに、その姿をはっきりと確認できない。
視線だけが真っ直ぐにこちらを捉えている。
ただの通行人とは思えない異質な雰囲気を漂わせていた。
夜風に揺れる街路樹の音すら止まっているように感じられた。
(何だ、あれ……)
踵を返そうとした瞬間、背後にも同じ気配があった。
挟まれていた。
逃げ場を探す間もなく、背後の男が口を開いた。
「六月楓さんですね」
落ち着いているが感情がない声だった。
業務連絡でもするような淡々とした口調。
それが、かえって俺の恐怖を煽った。
違いますと否定したかったが、舌が喉に張り付いて声が出ない。
男がゆっくりと一歩踏み出した。
その動きに合わせて前方の男も距離を詰めてきた。
(……え?)
思考が追いつかない。
背後の男の腕が伸びてきて、指先が肩口をかすめる。
「痛っ!」
咄嗟に身を捩って躱すが、伸びた親指が肩を突いた。
体勢を崩したところへ、今度は前方の一人が距離を一気に詰めてくる。
前後から挟み撃たれるように、二本の腕が同時に伸びてきた。
まるで形が決まっているような無駄のない連携だった。
「殺すな」
「分かっている」
「商品に傷を付けるな」
交わされる短い言葉に全身の血の気が引いた。
(殺すな……? 商品って何だ?)
考える余裕などなかった。
腕を掴まれれば、それで終わりだ。
本能がそう告げていた。
「うわあぁぁぁああぁぁっ!」
大声で叫びながら闇雲に腕を振り回す。
その勢いに一瞬だけ怯んだ男達の隙をついて、俺は身を捩って二人の隙間へ飛び込んだ。
俺は全力で走り出した。
呼吸が乱れ、肺の中で息が暴れる。
背後で舌打ちが聞こえるが振り返る余裕はない。
ただ前だけを見て、もつれる足を必死に動かす。
(死にたくない! 死にたくない!)
頭の中で必死に叫びながら。
俺の絶叫を嘲笑うかのように背後から足音が追ってくる。
距離がじりじりと詰まるのを感じる。
(誰か……誰か助けて!!)
振り向くと左右から二本の腕が伸びてきていた。
今度こそ逃げ場はなかった。
両腕を掴まれる――そう覚悟した瞬間だった。
パシッと叩くような音がした。
男達の手が俺の腕に触れる寸前で弾かれたのだ。
重心がズレた二人はバランスを崩した。
驚いて自分の腕を見ると、薄く透明な膜のようなものを纏っていた。
ラップフィルムを幾重にも重ねたような頼りない見た目。
だが腕を触れようとしても、指先はその膜に阻まれ決して届かない。
皮膚のすぐ上に目に見えない硬い殻があるかのようだった。
(これ、また……昨日と同じ)
考えている暇はなかった。
膜に阻まれてバランスを崩した二人の男が、体勢を立て直そうと足を踏ん張っていた。
俺は弾かれるように走り出した。
自分の身に何が起きているのか考える余裕などなかった。
ただ逃げて生き延びることだけを考えていた。
路地を抜け、人通りのある大通りに飛び出す。
行き交う人々の視線を感じながらも、足を止めることはできなかった。
荒い息を整える暇もなく、震える手で鞄の中を探る。
財布の内側に挟んだままの名刺。
焦る指先でその硬い紙を取り出した。
スマホを取り出し番号を打ち込む。
指先が震えて上手く押せない。
何度か打ち間違えた後、コールボタンを押した。
呼び出し音が一回、二回と鳴る。
永遠にも思えるその数秒の間、俺はただ祈るような気持ちで相手が出るのを待っていた。
繋がった通話口から聞き覚えのある声が返る。
『はあい、宮司さんよ』
「宮司さんっ! た、た、助けて――」
『……落ち着いて聞いてちょうだい』
宮司さんの声は驚くほど落ち着いていた。
『今からすぐに迎えに行くわ』
この後の行動を教えてくれると通信は切れた。
スマホを握る手が震える。
(……本当に来てくれるのか?)
夜風が静かに吹いていた。




