第六話 帰り道の襲撃
目覚まし時計の音で、俺は重い瞼をこじ開けた。
いつも通りの朝だった。
布団を撥ね除け、顔を洗い、鏡に映る冴えない顔を一瞥する。
三十一歳という年齢よりも老けて見える目の下の隈も、寝癖のついた髪も、いつも通り。
ただ、指先にはまだ、昨日のあの感触がうっすらと残っている気がした。
(気のせいだ。ただの寝不足だろ)
そう自分に言い聞かせて、俺は身支度を済ませた。
☆
オフィスの自動ドアをくぐった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
理由はすぐに分かった。
デスクの向こうから、課長がこちらを見てにやりと笑っていたからだ。
あの粘着質な笑みを見るたびに、体が勝手に強張る。
十一年勤めてもなお、この反応だけは治らない。
まるで条件反射のように、胃の底が重くなる。
「六月い。病院に行かなくても大丈夫か? 手遅れになるぞ」
朝一番から、鼓膜に張り付くような声。
まだパソコンも立ち上げていないというのに、今日も一日が始まってしまったことを嫌でも実感させられた。
周囲の同僚たちが、さりげなく視線を逸らすのが分かる。
関わりたくない、というその態度にはもう慣れている。慣れてしまっていることが、逆に悲しかった。
だが今日は、いつものように黙って受け流すことができなかった。
「どうして課長が俺の検査結果を知ってんですか!?」
思わず声が大きくなった。
自分でも驚くほどの声量だった。
フロア全体の空気が、一瞬だけ止まる。
だが、そんなことを気にする余裕はなかった。
昨日から胸の奥にわだかまっていた不信感が、堰を切ったように溢れ出したのだ。
課長は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの薄笑いへと戻った。
「知り合いが病院にいるんだよ。うちは色々付き合いがあるんだ。お前が知らないだけでなあ」
あっさりと返される答え。
それはまるで、疑問を持つこと自体がおかしいとでも言うような、平然とした口調だった。
会社と病院の間に、どんな付き合いがあると個人情報が赤の他人に知られるというのか。
詮索したところで、まともな答えが返ってくるとは到底思えなかった。
この人にとって、俺の個人情報など、雑談の延長線上にあるものでしかないのだろう。
「何なら今から病院に行ってきてもいいぞ、ちょうど泌尿器科のシステムのメンテが入ったばかりだ」
下品な笑いを浮かべながら、課長は一枚の指示書を差し出してくる。
周りからは失笑が漏れた。
いつものことだ。この会社では、課長の機嫌を損ねないことが何よりも優先される。異を唱えることは、自分の居場所を危うくすることと同義だった。
俺は奥歯を噛み締めながら、それを受け取った。
何か言い返したところで、状況が良くなることなど一つもない。
それくらいのことは、十一年もこの会社にいれば嫌でも学ぶ。
学んだ上で、それでも呑み込めない苛立ちが、腹の底に澱のように溜まっていった。
荷物をまとめ、俺は逃げるようにオフィスを後にした。
☆
指示書に書かれた病院は、市の外れにある総合病院だった。
電子カルテシステムの保守点検という、いつも通りの仕事内容。
だが、電車に揺られている間も、頭の中はどうしても別のことでいっぱいだった。
(何で課長が病院の情報を知ってるんだ)
(そもそも、俺の検査結果なんて、誰からどう漏れるんだよ)
考えても答えの出ない疑問ばかりが、頭の中をぐるぐると回る。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、俺は昨日感じたあの指先の違和感のことも思い出していた。
あれも、何か関係があるのだろうか。
それとも、単なる偶然が重なっているだけなのか。
病院に到着し、情報システム課の担当者に挨拶を済ませてから作業に取り掛かる。
サーバールームの端末に向かい、電子カルテシステムのログを確認し、報告書に記載されている不具合の原因を洗い出す。
パッチを適用し、動作確認を繰り返す。
手を動かしている間だけは、幸いにも余計なことを考えずに済んだ。
単調な作業は、今の俺にとって唯一の逃げ場だった。
だが、その日に限って、作業は思うように進まなかった。
古いバージョンのまま運用されていたシステムは、パッチを当てるたびに別の箇所で不具合が顔を出し、想定していたよりも手間取った。
担当者との追加の打ち合わせも入り、確認作業は何度も中断された。
時間はいたずらに過ぎていくばかりで、気が付けば窓の外はとうに夕闇に沈んでいた。
全ての動作確認を終え、報告書にサインをもらって病院を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
街灯が等間隔に灯り、行き交う車のヘッドライトがアスファルトを照らしている。
時刻を確認すると、想像していたよりもずっと遅い時間だった。
(こんな時間か……)
小さくため息をつきながら、俺は駅への道を歩き出した。
☆
駅までの道は、いつもより静かだった。
シャッターの下りた商店街、街灯の下に長く伸びる自分の影、遠くで聞こえる救急車のサイレン。
すでに人通りもまばらな時間帯で、見慣れた夜道のはずなのに、今夜はやけに人気がない。
まるで街全体が息を潜めているような、そんな錯覚すら覚えた。
昨日感じた、あの背中に張り付くような視線のことを思い出す。あれは気のせいだったのだろうか。
それとも――。
(考えすぎだ。ただの、被害妄想だ)
自分にそう言い聞かせながら、歩調を早める。
だが、早めた足音の奥に、別の足音が混じっている気がした。
規則正しい、硬い靴底の音。
自分のものではない、その足音に気づいた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
勇気を絞って振り返る。しかし誰もいない。
ただの気のせいだと、もう一度自分に言い聞かせて、俺は歩き続けた。
だが、一度芽生えてしまった疑念は、簡単には消えてくれない。
ポケットの中でスマホを握る手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
商店街を抜け、人気のない裏路地に差し掛かった時だった。
前方に黒いスーツ姿の男が、立っているのに気づいた。
街灯の光を受けても、その輪郭はやけに希薄だった。
表情はなく、視線だけが真っ直ぐにこちらを捉えている。
ただの通行人とは思えない、異様な静けさを纏った立ち姿。
夜風に揺れる街路樹の音すら、その場だけ止まっているように感じられた。
(何だ、あれ……)
踵を返そうとした瞬間、背後にも同じ気配があった。挟まれている。逃げ場を探す間もなく、背後の男が口を開いた。
「六月楓さんですね」
落ち着いた、感情の読めない声だった。
まるで業務連絡でもするような、平坦な口調。
その温度のなさが、かえって恐怖を煽った。
違いますと否定したかったが、舌が喉に張り付いて声が出ない。
男がゆっくりと一歩踏み出した。
それに合わせるように、前方の男も距離を詰めてきた。
爪先を鳴らすような足音一つ立てず、影だけが街灯の下で伸び縮みする。
「……え?」
思考が追いつかないまま、背後の男の腕が伸びてきた。
指先が肩口をかすめる。
「っ!」
咄嗟に身を捩って躱す。
だが、体勢を崩したところへ、今度は前方の一人が回り込んできた。
左右から挟み撃つように、二本の腕が同時に伸びる。
まるで最初からそう決まっていたかのような、無駄のない連携だった。
「殺すな」
「分かっている」
「商品に傷を付けるな」
交わされる短い言葉に、全身の血の気が引いた。
喉の奥が、からからに乾いていく。
(殺すな……? 商品ってなんだ――)
考える余裕などなかった。
腕を掴まれれば、それで終わりだ。本能がそう告げていた。
「うわあぁぁぁああぁぁっ!」
大声で叫びながら、闇雲に腕を振り回す。
その勢いに一瞬だけ怯んだ男たちの隙をついて、俺は身を捩って包囲の隙間へ飛び込んだ。
心臓が痛いほど早鐘を打つ。
息が肺の中で暴れる。
だが、逃げ切れたわけではなかった。
踵を返した瞬間、背後で舌打ちが聞こえる。
振り返る余裕はない。
ただ前だけを見て、もつれる足を必死に動かし続けた。
頭の中を占めるのは、ただ一つの単純な感情だけだった。
死にたくない。
ただ、それだけだった。
背後から追ってくる足音は、こちらの動揺を嘲笑うかのように落ち着いていた。
距離が、じりじりと詰まっていく。
息遣いすら聞こえるほどの近さまで、既に迫られている。
(誰か……誰か助けて――)
左右から、再び二本の腕が伸びてくる。
今度こそ、逃げ場はなかった。
両腕を掴まれる――そう覚悟した瞬間だった。
パシッと叩くような軽い音がした。
男たちの手が、俺の腕に触れる寸前で弾かれたのだ。
まるで見えない壁にぶつかったかのように、二人の体勢が同時に崩れる。
驚いて自分の腕を見下ろすと、そこには薄く透明な膜のようなものが張り付いていた。
昨日の帰り際、指先に一瞬だけ浮かび上がったあの感触と、同じものだった。
ラップフィルムを幾重にも重ねたような、頼りない見た目。
だが指で触れようとしても、指先はその膜に阻まれ、決して届かない。
皮膚のすぐ上に、目に見えない硬い殻があるかのようだった。
(これ、また……昨日のあれと同じ――)
考えている暇はなかった。
膜に阻まれてバランスを崩した二人の男が、体勢を立て直そうと足を踏ん張る。
だが、その一瞬の隙こそが、俺に残された唯一の逃げ道だった。
俺は弾かれるように走り出した。
何が自分の身に起きているのか、理解する余裕などなかった。
ただ、生きて逃げることだけを考えていた。
路地を抜け、人通りのある大通りに飛び出す。
行き交う人々の視線を感じながらも、足を止めることはできなかった。
荒い息を整える暇もなく、震える手で鞄の中を探った。
財布の内側に挟んだままの名刺。
指先が、その硬い感触を探り当てる。
皺の寄った、それでいて今の自分にとっては何よりも縋りたい一枚だった。
スマホを取り出す手が、震えていた。
番号を打ち込む指先が、焦りで上手く押せない。
何度か打ち間違えた後、コールボタンを押す。
呼び出し音が一回、二回と鳴る。
永遠にも思えるその数秒の間、俺はただ祈るような気持ちで画面を見つめていた。
繋がった通話口から、聞き覚えのある声が返る。
『はあい、宮司さんよ』
「宮司さんっ! た、た、助けて――」
『……落ち着いて聞いてちょうだい』
宮司の声は驚くほど落ち着いていた。
『今からすぐに迎えに行くわ』
その一言だけで通信は切れた。
スマホを握る手が震える。
(……本当に来てくれるのか?)
夜風だけが静かに吹いていた。




