第五話 変わらない日常
目覚まし時計の音で、俺は重い瞼をこじ開けた。
枕元のスマホを掴んで時刻を確認する。
いつも通りの時間。いつも通りの朝。
(夢……だったら良かったんだけどな)
布団から這い出て、狭い洗面所で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらず冴えない。
三十一にしては老けて見える目元の隈も、寝癖のついた髪も、何一つ普段と違いはしない。
それなのに、昨日聞かされた言葉の数々が、頭の中でずっと反響していた。
魔力回路。
保護対象。
学術院。
どれもこれも、現実感の薄い単語ばかりだ。
手のひらを開いて見つめてみる。
皮膚の下に、本当にそんな器官が眠っているのだろうか。
触っても、痛くも痒くもない、いつもの手だ。
トースターにパンを入れながら、ふと考える。
もし本当に自分の中に何かが眠っているのだとしたら、いつからそうだったのだろう。
生まれつきなのか、それとも何かのきっかけで目覚めたのか。
霜月さんは「魔力回路という器官が存在する」と言っていた。
(いつだ……いつから在るって言うんだよ)
思い当たる節など、何一つない。
特別な体験も、劇的な出来事も、俺の人生には縁がなかった。
ただ平凡に、地味に、三十一年間を積み重ねてきただけだ。
トースターが軽い音を立ててパンを吐き出す。
焦げた匂いが漂う。
俺はぼんやりとそれを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
着替えを済ませ、鞄を手に取る。
財布の中に挟んだままの名刺の感触を、指先が無意識に確かめていた。
宮司さんから渡された、直通の番号が書かれた一枚。
(いや、これから仕事だ。今しないといけない事を優先しよう)
自分に言い聞かせるように呟いて、俺は部屋を出た。
☆
最寄り駅までの道は、いつもと変わらない。
シャッターの下りたままの喫茶店、通学路を歩く子供たち、朝の光に照らされたアスファルト。
見慣れた景色のはずなのに、今朝はやけに目に染みた。
まるで初めて見る風景のように、一つ一つが妙に鮮明だった。
満員電車に揺られながら、俺はスマホの画面を見るともなく眺めていた。
周囲のサラリーマンたちは皆一様に疲れた顔をして、それぞれのスマホに視線を落としている。
誰も彼も、自分と同じように、何かに耐えながら生きているのだろう。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
向陽メンテナンスサービスのオフィスは、今日もいつも通りだった。
薄暗い蛍光灯、書類が積み上がったデスク、コーヒーの染みがついた給湯室のマグカップ。
十一年間見慣れた景色に、俺はどこかほっとする自分に気づく。
「六月、おはよ」
「お、おはよう」
同僚の一人が挨拶を交わして通り過ぎていく。
何気ないその一言に、ようやく現実に足がついたような感覚がした。
パソコンを立ち上げ、昨日の作業報告書を開く。
日常業務というやつは、こちらの都合など気にせず律儀に続いていく。
クライアントからのメール、機材の点検予定、来週の訪問スケジュール――目の前の画面には、昨日までとまったく変わらない仕事が並んでいた。
それが、今の俺には奇妙なほど安心できることだった。
(普通だ。ちゃんと、いつも通りだ)
キーボードを叩きながら、心の中で何度もそう繰り返す。
まるで自分にそう言い聞かせないと、昨日の出来事に押し潰されてしまいそうだった。
午前中はメールの返信と見積書の作成に追われた。
取引先の担当者から機材の不具合について問い合わせが入り、対応方法を調べる。
誰かに何かを求められ、それに応える。
ただそれだけの繰り返しが、今はひどく尊いものに感じられた。
だが、集中しようとするほどに、頭の隅では昨日の光景が繰り返し再生される。
白い結露の結晶。霜月さんの指先から立ち上った、白い冷気。
『魔力回路は、魔法を行使するために必要な器官です』
(そんなこと、あるわけがない……)
何度も打ち消そうとする。
だが、あの光景があまりにも鮮明で、フィクションだと片付けることができずにいた。
目を閉じれば、あの応接室の重い空気まで思い出せてしまう。
革張りのソファの感触、宮司の甘ったるく低い声、霜月さんの感情の読めない瞳――どれもこれも、夢にしては生々しすぎた。
昼休み、コンビニで買った弁当を食べながら、俺はぼんやりとスマホの画面を眺める。
ニュースアプリを開いても、内容が頭に入ってこない。
文字を目で追っているだけで、意味が素通りしていく。
(あの人たちは、本当に国の人間なんだろうか)
(学術院って、一体どこにあるんだ)
(保護を拒否したら、本当に危険なことがあるのか)
考えれば考えるほど、答えの出ない問いが増えていく。
給湯室から漏れ聞こえる同僚たちの雑談――昨夜のテレビの話題、来週末の予定、他愛のない会話が、今の俺にはひどく遠いものに聞こえた。
結局、弁当を半分ほど残したまま、昼休みは終わった。
☆
午後の仕事は、それなりに集中してこなせた。
クライアント先への訪問予定を確認し、必要な機材をリストアップする。
単調な作業を繰り返すことで、思考を無理やり仕事に向ける。
それが今の俺にできる、唯一の逃避方法だった。
三時を過ぎた頃、後輩の一人がデスクにやって来た。
「六月さん、先週の見積り、確認お願いしてもいいですか」
「あ、うん。ちょっと待って」
差し出された書類を受け取り、目を通す。
数字の羅列を追いながら、俺はどこかで安堵していた。
こういう、何でもないやり取りこそが、自分の生きている世界の輪郭を確かめさせてくれる。
書類を確認し終え、いくつかの修正点を伝える。
後輩が「ありがとうございます」と頭を下げて席に戻っていくのを見送った、その直後だった。
「おー、六月」
背後から聞こえた粘着質な声に、肩が跳ねる。振り返らなくても誰の声かは分かった。
課長だ。
「なんか顔色悪いなあ。……あ、そういや」
思い出したように、課長がにやついた顔を近づけてくる。
「昨日の健康診断、引っ掛かったんだって?」
「――え?」
心臓が跳ねた。指先が、キーボードの上で止まる。
(何で、課長がその事を知ってるんだ……?)
健康診断の結果など、まだ本人にすら詳しい説明がされていないはずだ。
あるとすれば「確認事項がある」という、あの一言だけ。
それなのに、どうして課長の耳にまで入っているのか。
「い、いや、その……」
言葉に詰まる俺を気にする様子もなく、課長は続けた。
「別に大した話じゃないだろ。どうせ何処かで変な菌でももらってきたんじゃないのか? 最近の若いもんは自己管理がなってないからなあ」
周囲からくすくすと小さな笑いが漏れる。
俺はただ視線を落とし、キーボードに指を戻した。
「……特に、何もないと思います」
声が、思ったより小さく震えていた。
「まあ、何かあったらちゃんと報告しろよ」
それだけ言うと、課長は満足そうに離れていった。
残された俺は、しばらく画面を見つめたまま動けずにいた。
(何でだ……何で課長が俺の検査結果を知ってるんだ?)
病院と会社の間に、何らかの繋がりがあるとでも言うのだろうか。それとも課長の知り合いがあの病院にいるのだろうか。
判断材料は何もない。ただ、得体の知れない不安だけが、じわじわと胸の底に広がっていく。
定時が近づき、デスク周りを片付け始めた頃だった。
コップに入れた水を飲もうとして、ふと違和感を覚える。
指先の感触が、おかしい。
コップの縁に触れているはずなのに、触感がやけに遠い。
まるで薄い手袋を一枚、余分に嵌めているような感覚。
何度も指先を擦り合わせてみるが、皮膚の表面には何も見当たらない。
それなのに、確かにそこに何かがある気がしてならなかった。
恐る恐る、指先に視線を落とす。
一瞬――本当に一瞬だけ、指先の周囲の空気が揺らいだように見えた。薄い膜のようなものが、皮膚の表面をなぞるように浮かび上がり、光を捻じ曲げてラップフィルムじみた反射を残したかと思うと、瞬きの間に霧散して消えた。
(今の、何だ……?)
瞬きを繰り返す。見間違いだと思いたかった。
だが、指先に残った感触だけは、確かに現実のものだった。
硬くも柔らかくもない、それでいて確かに「そこにある」という手触り。
もう一度、コップに触れてみる。
今度は何の違和感もなかった。ただの、いつも通りの指先だ。
(気のせいだ。ただの、気のせいだ!)
自分にそう言い聞かせながら、俺はコップを置いた。
だが、拭い去れない違和感だけが、じわりと胸の奥に残っていた。
窓の外では、夕日がビル群の隙間に沈みかけている。
いつもと変わらない、平凡な一日の終わり。
鞄を持って席を立つと、周囲はすでに帰り支度を始めていた。
誰かが笑い、誰かが伸びをし、誰かが電話で今晩の予定を話している。
ありふれた退勤前の光景。それを見つめながら、俺はふと思う。
(この光景を、俺はいつまで見ていられるんだろう)
馬鹿げた考えだと分かっていた。
だが、一度浮かんでしまった疑問は、簡単には消えてくれない。
オフィスを出て、いつもの帰り道を歩きながら、俺はもう一度その指先を見つめる。
あの薄い膜のようなものは、もうどこにも見当たらなかった。
だが、見えなくなってしまったことが、かえって不気味だった。
(これから、俺はどうなっていくんだろうな)
答えの出ない問いを抱えたまま、俺はただ、一歩ずつ家路を辿っていった。
夕暮れの商店街を抜ける途中、ふと足を止める。
「対象確認」
声と共にピッと何かの機会音が背後から聞こえた。
(誰かに見られている?)
声が聞こえた方向に振り返っても、そこには夕方の見慣れた光景が広がっているだけだ。
買い物帰りの主婦、下校中の学生、煙草を吸うサラリーマン。
どこにでもある、平凡な景色。
誰も無線なんて持っていない。
持っているはずがない。
気のせいだ。そう自分に言い聞かせて、俺は再び歩き出した。
だが、背中に張り付くようなその感覚だけは、家に着くまでずっと消えることがなかった。




