第四話 特区管理局局長室
重厚な木製の扉をノックする音に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
「凛です。戻りました」
「どうぞ」
落ち着いた声が返る。
凛は一礼してから、静かに扉を開いた。
局長室は他の階層とは一線を画す、簡素な内装だった。
飾り気のない書棚には資料が整然と並び、窓際の執務机には決裁待ちの書類が几帳面に積まれている。
壁には勲章の類も、賞状の一つも飾られていない。
派手さを嫌う主の性格が、そのまま部屋の空気に表れていた。
ただ、机上に小さな写真立てが一つだけ置かれていることに、凛は入室するたびに目を留めてしまう。
机に向かっていた男が顔を上げる。
年齢に見合わぬ若々しい顔立ちに、鋭さを湛えた目。
局長という肩書きに違わぬ威圧感を纏いながらも、その目元にはどこか凛と似た輪郭があった。
「只今戻りました。おに……局長」
言い直そうとした凛の言葉を、霜月流星は軽く手を上げて遮った。
表情が、わずかに崩れる。
「わたししかいないから気にしなくても良いよ、凛」
実の兄の顔を見せた流星に、凛の纏う空気もわずかに緩んだ。
ソファに座る姿勢は変わらず美しいままだったが、目元だけが柔らかくなる。
それは血の繋がった兄妹にしか分からない、些細な変化だった。
「これが六月楓の情報です」
凛は手にしていたファイルを机の上に置いた。
中には血液検査の詳細な数値、魔力回路の反応強度を示すグラフ、そして本人の簡単な経歴がまとめられている。
指先で表紙を軽く整える仕草すら、無駄がなかった。
「ご苦労様だったね」
流星はファイルには目もくれず、まず労いの言葉を口にした。
それから、壁掛け時計にちらりと視線を送る。
「今日の仕事はこれで終わりかな?」
少し視線を落とす凛。
「仕事は終わりですが、この後、皐月様とお食事の予定があります」
「……婚約者との仲を深めるのは良い事だね」
流星の声に、一瞬だけ何かを堪えるような間があった。
指先が、机の端をわずかに叩く。
だが、すぐにいつもの調子に戻った。
「頑張って来るんだよ」
「ありがとうございます。それではお休みなさい、お兄様」
一礼して部屋を出ていく凛。
扉が静かに閉まる音を聞き届けてから、流星はようやくファイルに視線を落とした。
「……六月……か」
ぱらぱらとページを捲る指が、途中で止まる。
特別変わったところのない経歴。
平凡な会社員としての十一年。
目立った交友関係も、特筆すべき経済状況も、これといって記載されていない。
給与明細の写しには、決して裕福とは言えない数字が並んでいた。
「この経歴が本物なら奇跡だな」
凛がまとめたプロファイルには、大した情報はなかった。
それが逆に、流星の意識に小さな引っ掛かりを残す。
何もない、ということ自体が、時に不自然に映ることがあるからだ。
流星は軽くため息をつくと、ファイルを閉じた。
窓の外はすでに茜色に染まり始めている。
「さて――」
呟いた言葉は、誰に届くこともなく、静かな局長室に溶けて消えた。




