第三話 内閣府特区管理局
看護師に連れられて歩いた廊下は、やけに長かった。
角を曲がるたびに景色が変わっていく。
最初は消毒液の匂いが漂う、いつもの病院の廊下だったはずだ。
それなのに、何度目かの角を曲がった頃には、床は白いリノリウムから毛足の長い絨毯へと変わり、壁には見たこともない風景画が等間隔に並んでいた。
俺が働いている雑居ビルとは、明らかに金のかけ方が違う。
(これ、本当にさっきの病院の中なのか……?)
疑問を口にする隙も与えられないまま、エレベーターに乗せられ、また別の階で降ろされる。
案内されるまま重そうな扉をくぐると、そこはもう病院とは思えない空間だった。
まず目に入ったのは、部屋の奥にある大きな窓だ。
午後の光がカーテン越しに柔らかく差し込み、室内全体をぼんやりと照らし出している。
その手前に、向かい合わせに置かれた革張りのソファ。
艶のある焦げ茶色の革は、座る前から座り心地の良さを主張しているようだった。
ソファの間に据えられたローテーブルには、磨き上げられたガラスの灰皿と、封を切られていないミネラルウォーターのボトルが二本、几帳面に並べられている。
壁際の棚には見覚えのない賞状や盾のようなものが飾られていて、どれも自分には縁のない世界の道具に見えた。
人の気配はなく、ただ壁掛け時計の秒針だけが、やけにはっきりと耳に届く。
「こちらでお待ちください」
看護師はそれだけ言うと、まるで長居をすることを恐れるように、逃げるようにして部屋を出て行った。
取り残された俺は、革張りのソファに浅く腰掛け、居心地の悪さに身体を縮める。
血液検査で何か確認事項があると言われただけのはずだ。
それなのに、どうしてこんな場違いな部屋に一人きりで座らされているのか、まるで見当がつかない。
場違い。
その言葉が頭の中で何度も繰り返された。
安物のスニーカーの爪先を見つめながら、俺はただ息を潜めていた。
時計を見る。5分。
豪華なソファーに申し訳なくなってくる。
スマホを見る。20分。
物音一つしない部屋にため息が響く。
過ぎない時間。
あとどれくらい待つのだろう。
再び腕時計に目をやろうとした、その瞬間だった。
コンコン、と二度だけノックが鳴る。
そして扉がゆっくりと開いた。
最初に目に入ったのは、戸口を塞ぐほどの体格だった。
身長は百八十を優に超えているだろう。
仕立ての良い黒のスーツが、盛り上がった肩と胸の筋肉を余計に強調している。
スキンヘッドに黒いサングラス、そのいかつい輪郭だけを見れば、テレビドラマに出てくるその筋の人間そのものだった。
俺は反射的に背筋を伸ばし、喉の奥が引き攣るのを感じた。
(や、やばい……何だこの人……)
「いや〜ん、そんな緊張しないでえ。取って食ったりしないんだから」
想像とはまるで違う、甘ったるい低音が部屋に響いた。
俺は思わず自分の耳を疑った。
今、目の前の強面から出た声だとは、とても信じられなかったからだ。
「あたし、宮司って言うの。内閣府特区管理局の係長やってるのよね」
名刺を差し出す仕草だけは、妙に丁寧だった。
受け取った名刺には「内閣府特区管理局 係長 宮司隼斗」という文字と、見慣れない紋章が印刷されている。内閣府、という単語の重みだけが、じわりと胸の底に沈んでいった。
「あの……内閣府の方が、どうしてこんな……」
場所に、と続けようとした言葉が、喉の奥でつかえた。
緊張のあまり、思わず左手が首元に伸びる。
「まあまあ、そう焦らないで。今日はちょっとした話をしにきただけだから」
宮司さんはそう言って、向かいのソファに深く腰を下ろした。
革の軋む音が、やけに大きく部屋に響く。
それからすぐ、また扉が静かに開いた。
「失礼します」
次に入ってきたのは、宮司さんとは対照的な女性だった。
夜空をそのまま映したような、黒く長いストレートの髪。
整った鼻筋、二重の大きな瞳、淡い色の唇は薄く引き結ばれ、表情はほとんど動かない。
出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ体型を、黒のパンツスーツが上品に包んでいた。
どこかの有名企業の若い役員だと言われても、まるで違和感がない。
(綺麗な人だ……)
俺は思わず視線を逸らした。
こんな綺麗な人と正面から目を合わせる度胸など、自分にはない。
「霜月凛と申します」
霜月と名乗ったその女性は、美しい動作で一礼して感情の読めない声でそれだけ告げると、宮司の隣にゆっくりと腰を下ろした。
無駄のない所作の一つ一つが、育ちの良さを物語っているようだった。
「六月さんの検査結果について、ご説明させていただきます」
「あ、はい……」
俺の返事に構わず、霜月さんは淡々と続けた。
「六月さんの体内には、魔力回路と呼ばれる器官が存在します」
「――は?」
思わず声が裏返った。
これが頭の中が真っ白になるという事なのだろう。
魔力回路、という言葉の響きだけが脳を素通りしていく。
ゲームや漫画の中でしか聞いたことのない単語が、まさか自分自身に向けられるとは思ってもみなかった。
「魔力回路は、魔法を行使するために必要な器官です。ほとんどの人には存在しない器官ですが、六月さんには先ほどの検査で体内に在ることが確認されました」
「いやいや、ちょっと待って下さい」
俺は思わず両手を上げた。冗談か何かだと思いたかったが、霜月さんの表情には冗談を言っている気配など微塵もない。
「魔法とか、そういうのは……その、フィクションの話ですよね?」
「現実です」
霜月さんはそう言うと、ローテーブルに置いてあったペットボトルを持ち上げた。
俺は何事かとその動きを凝視する。
白魚のような指先をペットボトルの結露が濡らした。
その刹那、指先から白い冷気が立ち上り、結露はパキッと小さな音を立てて机の上に落ちて砕け散った。
俺は言葉を失った。
頭の中では、昨夜プレイしていたゲームの光景が、意味もなく蘇っていた。
剣を握り、魔法を放つ画面の中の主人公たち。
あれはただの空想だと、ずっとそう思って生きてきたのに。
心臓が早鐘のように鳴っている。
俺の心情を無視するように霜月さんは淡々と続けた。
「国はこの器官の存在を公にはしていません。魔力回路を持つ方々は、内閣府特区管理局が極秘裏に保護しています」
「保護……対象……」
その言葉の重さが、ようやく実感を伴って胸に落ちてきた。俺のような平凡な人間が、国の保護対象になっている。
にわかには信じがたい話だった。
「保護って、具体的に何をされるんですか。監視とか、そういう……」
自分でも間の抜けた質問だと思ったが、他に聞き方が思いつかなかった。
「学術院という施設があります」
霜月さんは俺の質問には直接答えず、静かに続けた。
相変わらずソファに座る姿勢がまったく崩れない
「魔力回路を持つ方々が、安全に、そして快適に生活できるよう国が用意した場所です」
霜月さんの口から出てくる単語は、どれもこれも現実離れしていて、頭が処理を拒否しているような感覚だった。
学術院、保護対象、魔力回路――それらの言葉が、まるで別の世界の出来事のように耳を通り抜けていく。
「あの……つまり、俺はその、学術院ってところに行かないといけないって事ですか」
「六月さんには選択肢があります。」
「よかった……」
胸の中で張り詰めていた糸が緩む。
そう思った次の瞬間だった。
「ただし、学術院への保護を拒否した場合、安全は保証できません。」
「……え? は?」
(安全は保証できないってどういう事だ?)
霜月さんの表情が動かない分、言葉の裏に何があるのか、俺には読み取りようがない。
宮司さんが横から口を挟んだ。
「まあまあ、今日はとりあえず知っておいてもらいたかっただけよお。急に全部信じろって言われても無理でしょ? あたしたちだって、最初は同じだったんだから」
サングラス越しの目がこちらを見ているのが分かる。
その言葉には、思いのほか気遣いのようなものが滲んでいた。
俺は何も言い返せず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
結局、それ以上の詳しい説明はなく、俺は狐につままれたような気分のまま、部屋を後にすることになった。
頭の中はまだ整理がつかず、たった今聞かされた話が現実なのか、それとも手の込んだ悪戯なのか、判断すらつかない。
エレベーターの前まで見送りに来た宮司さんが、一枚の名刺をこちらに差し出す。
「はい、これ。あたしの連絡先」
受け取った名刺には、先ほどのものとは別の電話番号が直筆らしい文字で書かれていた。
「何かあったらこの番号へ電話ちょうだい。待ってるわ」
その声は甘ったるい調子のままだったが、俺の胸の奥には、名刺の重みだけがずっしりと残り続けている。
いつの間にか名刺を握る指先に汗が滲んでいた。




