第二話 特定健康診断
目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光がいつもより白かった。
休日の朝特有の、間延びした静けさが部屋に満ちている。
枕元のスマートフォンを手繰り寄せると、画面には九時十七分の表示。
昨夜は課長からのメッセージのせいで寝つきが悪かった気がするが、それでも身体は正直で、いつもより二時間近く長く眠れたことに安堵する。
「……行くか」
布団から這い出し、テーブルの上に置いたままのハガキを摘み上げる。
特定健康診断のご案内、という無機質な文字の下に、受診期限と会場になる病院の名前が印字されていた。
国民全員に受診が義務付けられてから、もう三年になる。
面倒だとは思うが、放置すれば督促状が届く。
それだけの理由で、俺は重い身体を引きずるようにして支度を始めた。
着替えながら、テレビも点けずに黙々と身支度を整える自分の姿が、ワンルームの鏡に映り込んでいる。
休日にわざわざ外へ出る用事なんて、この診断くらいのものだった。
指定された病院までは自転車で十五分ほどだった。
住宅街を抜け、大通りに出ると、遠くに白い建物の輪郭が見えてくる。
近づくにつれて、コンクリートの壁面が朝日を反射して眩しく光っているのが分かった。
さらに自転車を漕ぎ進めると、壁面の継ぎ目に走った経年の罅や、正面玄関に掲げられた緑ヶ丘病院という看板の、随分と見覚えのある字体まではっきりと視認できるようになる。
(そう言えば、この病院にも仕事で何度も来たなあ)
しみじみと以前のトラブルを思い浮かべながら自動ドアをくぐった。
エントランスの大きなポスターに「世界をつなぐ医療 レッドライン医療財団 献血にご協力ください」と張り出されている。
(ああ、有名な団体だ)
老朽化した会計システムの不具合で、深夜まで駆り出されたことが何度もある。
あの時の担当者は今もいるのだろうか。
エントランスに漂う消毒液の匂いが、当時の記憶を呼び覚ますようだった。
そんなことを考えながら、俺は受付機に診察券代わりのハガキを差し込んだ。
待合室は思っていたよりも広く、そして人で溢れていた。
杖をついた老人が、隣に座る同年代らしき男と世間話に興じている。
少し離れた席では、子供を膝に乗せた母親が、ぐずり始めた我が子をあやしながら順番を待っていた。
窓際の席には、スーツ姿のままスマートフォンを見つめる会社員らしき男がいて、休日出勤の合間に無理やり時間を作ってきたのだろうと想像がついた。
年齢も服装も、抱えている事情もばらばらな人々が、同じ空間で同じように順番を待っている。
誰も彼もが、義務だから来ているという顔をしていた。
その中に紛れて座る自分もまた、その他大勢の一人でしかない。そう思うと、不思議と気が楽になった。
壁に据えられたテレビは、音量を絞られたまま朝のニュース番組を流している。
画面には何となく見覚えのある白髪の男が映っていた。
偉そうなおっさんが記者団の前で何やら会見をしているようだった。
テロップには「霜月巌厚生労働大臣、特定健康診断制度、更なる拡充へ」という文字が流れている。
政治や制度の話には縁がない生活を送ってきた俺にとって、それはただの背景音に過ぎなかった。
ただ何となく、その政治家の顔つきだけが妙に記憶に残った。
三十分、四十五分、一時間。番号の書かれた電光掲示板は、なかなか自分の数字に近づいてくれない。
備え付けの雑誌はどれも読み尽くされてくたびれていて、手に取る気も起きなかった。
時折、名前を呼ばれた誰かが立ち上がり、また誰かが新しく入ってくる。
その繰り返しを眺めているうちに、時間の感覚がどんどん曖昧になっていく。
休日の大切な時間をこんな場所で溶かしていることに、俺はいい加減うんざりし始めていた。
ようやく名前を呼ばれたのは、待合室に入ってから三時間近くが経った頃だった。
案内された診察室には、いつもの健康診断では見たことのない機材が並んでいた。
看護師が手にしているのは、小さな試験管のようなものと、見たこともない検査キットだ。
「今日は追加の検査がありますので、少し多めに採血させていただきますね」
「追加の採血ですか」
最近増えた検査かな、と俺は内心で首を傾げる。
毎年受けている健康診断のはずなのに、今年から急に項目が増えたらしい。
看護師は慣れた手つきで腕に針を刺しながら、事務的な口調で説明を続けた。
「三年前から始まった新しい検査項目なんです。国の方針で、全国民が対象になっていて」
それ以上の説明はなかった。俺も特に詮索する気にはなれず、ただ腕から抜かれていく血液を眺めていた。
(注射は昔から苦手なんだよな)
ぼんやりとガラス管の中に赤い液体が満ちていく様子を見ながら、早くこの休日を取り戻したいという気持ちだけが募っていく。
採血が終われば、あとは結果を待つだけだ。もうすぐこの面倒な休日から解放される。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
しかし、看護師の表情が変わったのは、採取した血液をその場で検査機にかけた直後だった。
画面に表示された数値を見て、彼女は一瞬だけ手を止め、それから何かを確認するように機械を操作し直した。
指先が小さく震えているのが、椅子に座ったままの俺の位置からでも分かった。
俺の視線に気づいたのか、看護師はすぐに笑顔を作り直したが、その一瞬の硬直を俺は見逃さなかった。
「あの、どうかしましたか」
「いえ、少々お待ちください」
看護師はそう言うと、検査結果の紙を手に取り、静かに部屋を出て行った。
残された俺は、消毒液の匂いが漂う部屋の中で、意味もなく壁の時計を見上げる。
こんな時は針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
廊下の向こうから、押し殺したような話し声が漏れ聞こえてきたけれど、内容までは聞き取れなかった。
しばらくして戻ってきた看護師の顔からは、先ほどまでの事務的な笑みが消えていた。
何かを言い出しかねているような、それでいて言わなければならないという義務感に押されているような、そんな表情だった。
「六月さん、採血結果に確認事項があります。」
看護師は一拍置き、丁寧な口調で続けた。
「恐れ入りますが、一緒に来て頂けますか?」
「はい?」
俺は気の抜けた返事をするのが精一杯だった。




