第二話 特定健康診断
【六月視点】
目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。
休日の朝特有のゆっくりとした静けさが部屋に満ちている。
枕元のスマートフォンの画面には九時十七分の表示されていた。
昨夜は課長からのメッセージのせいで寝つきが悪かった気がするが、いつもより二時間ほど長く眠れたことが嬉しかった。
「……行くか」
布団から這い出し、テーブルの上に置いたままのハガキをバッグに入れる。
特定健康診断のご案内と書かれたハガキには、受診期限と会場になる病院の名前が印字されていた。
国民全員に受診が義務付けられてから、もう五年になる。
面倒だとは思うけれど放置すれば、督促状が届いて更に手間が増える。
重いため息をつきながら、俺は身体を引きずるようにして支度を始めた。
テレビもつけずに黙々と身支度を整える自分の姿が、ワンルームの鏡に映り込んでいる。
休日にわざわざ外へ出る用事なんて、この診断くらいのものだった。
指定された病院までは自転車で十五分ほどだった。
住宅街を抜け、大通りに出ると、遠くに白い建物の輪郭が見えてくる。
近づくにつれて、コンクリートの壁面が陽射しを反射して眩しく光っているのが分かった。
さらに自転車を漕ぎ進めると壁面の継ぎ目に走った経年のヒビや、正面玄関に掲げられた緑ヶ丘病院という看板の随分と見覚えのある字体まではっきりと視認できるようになる。
(そう言えば、この病院にも仕事で何度も来たなあ)
しみじみと以前のトラブルを思い浮かべながら自動ドアをくぐった。
エントランスの大きなポスターに『世界をつなぐ医療 レッドライン医療財団 献血にご協力下さい』と張り出されている。
(ああ、有名な団体だ)
老朽化した会計システムの不具合で、深夜まで駆り出されたことが何度もある。
あの時の担当者は今もいるのだろうか。
エントランスに漂う消毒液の匂いが、当時の記憶を呼び覚ましてくれる。
そんなことを考えながら、俺は受付に診察券代わりのハガキを手渡した。
待合室は思っていたよりも広く、そして人で溢れていた。
杖をついた老人が、隣に座る同年代らしきご婦人と世間話に興じている。
少し離れた席では、子供を膝に乗せた母親が、ぐずり始めた我が子をあやしながら順番を待っていた。
窓際の席には、スーツ姿のままスマートフォンを見つめる会社員らしき男がいて、出勤の合間に無理やり時間を作ってきたのだろうと想像がついた。
壁に据えられたテレビは、音量を絞られたまま朝のニュース番組を流している。
画面には何となく見覚えのある白髪の男が映っていた。
偉そうな爺さんが記者団の前で何やら会見をしているようだった。
テロップには「霜月巌厚生労働大臣、特定健康診断制度、更なる拡充へ」という文字が流れている。
政治や制度の話には縁がない生活を送ってきた俺にとって、ニュースの内容は右から左に素通りしていく。
ただ、その政治家の顔つきだけが妙に記憶に残った。
三十分、四十五分、一時間と時間だけが過ぎていく。
電光掲示板は、なかなか自分の番号を表示してくれない。
本棚に並んでいるフリーペーパーは全て読み尽くした後だ。
掲示板の番号が変わる度に誰かが立ち上がり、誰かが待合室から去って行く。
それ眺めているうちに時間の感覚がどんどん曖昧になっていた。
休日の時間をこんな場所で溶かしていることに、俺はいい加減うんざりし始めてきた。
ようやく番号が表示されたのは、待合室に入ってから三時間近くが経った頃だった。
案内された診察室には、いつもの健康診断では見たことのない機材が並んでいた。
看護師が手にしているのは、小さな試験管のようなものと、見たこともない検査キットだ。
「今日は追加の検査がありますので、少し多めに採血させていただきますね」
「追加の採血ですか」
最近増えた検査かな、と俺は内心で首を傾げる。
毎年受けている健康診断のはずなのに、今年から急に項目が増えたらしい。
看護師は慣れた手つきで腕に針を刺しながら、事務的な口調で続けた。
「三年前から始まった新しい検査項目なんです。国の方針で全国民が対象になっていて」
それ以上の説明はなかった。
俺も特に詮索する気にはなれず、ただ腕から抜かれていく血液を眺めていた。
(注射は昔から苦手なんだよな)
ぼんやりとガラス管の中に赤い液体が満ちていく様子を見ながら、早く検査が終わって欲しいという気持ちだけが募っていく。
採血が終われば、あとは簡易診断を待つだけだ。
ようやく家に帰って積みゲーを解消出来る。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
採取した血液をその場で検査機にかけた直後に、看護師の表情が硬くなった。
彼女は画面を見ると一瞬だけ手を止め、それから何かを確認するように機械を操作し直した。
指先が小さく震えているのが、椅子に座ったままの俺の位置からでも分かる。
俺の視線に気づいたのか、看護師はすぐに笑顔を作り直した。
だが、一瞬の硬直を俺は見逃さなかった。
「あの、どうかしましたか」
「……いえ、何も。少々お待ちください」
看護師はそう言うと、検査結果の紙を手に取り静かに部屋を出て行った。
残された俺は消毒液の匂いが漂う部屋の中で、意味もなく壁の時計を見上げる。
こんな時は針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
廊下の向こうから押し殺したような話し声が聞こえてきたけれど、内容までは聞き取れなかった。
しばらくして戻ってきた看護師の顔からは、先ほどまでの笑みが消えていた。
何かを言い出しかねているような表情だった。
「六月さん、採血結果に確認事項があります。」
看護師は一拍置き、丁寧な口調で続けた。
「恐れ入りますが、一緒に来て頂けますか?」
「はい?」
俺は気の抜けた返事をするのが精一杯だった。




