第一話 午前一時の帰り道
時刻は午前一時を少し過ぎている。
街灯もまばらな住宅街に、乾いた足音だけが響いていた。
等間隔に並ぶ家々の窓はどれも暗く、唯一、角のコンビニだけが白い光を道路に落としている。
「……はあ、疲れた」
肩に食い込む鞄の重みに耐えかねて、俺は立ち止まりかけた足を無理やり前に出した。
会社の業務で終電に間に合わず、結局三駅分を歩く羽目になった。
すり減った革靴の底から悲鳴が聞こえてくる。
そういえば今日も朝からツイていなかったな。
ぼんやりとそんなことを思い出した。
☆
スマートフォンの画面には七時五十三分と表示されていた。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めるのは、もう何年も続いている癖のようなものだ。
四畳半の天井には、去年できたシミの模様がそのまま残っている。
大家に言って直してもらおうと思ったことは何度もあるが、毎日が忙しすぎて忘れてしまっていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は弱々しく、部屋の隅々まで届かない。
俺はしばらく布団の中で天井を眺めてから、のろのろと身体を起こした。
洗面所に立ち蛇口を捻る。
曇った鏡に映る顔は、いつも通り冴えない。
三十一という年齢のわりに疲れた目元と、寝癖がついたままの前髪。
普段と代わり映えのない見慣れた自分がそこにいた。
出勤の準備をしていると、テーブルに置いてある一枚のハガキが目についた。
宛名に六月楓様と書かれた、市役所から届いた健康診断の案内だ。
今年も『一部項目について精密検査を実施します』という一文が、いつもより小さな字で添えられている。
「そうか、明日だった」
明日は休日なのに。
予定が入る事なんてないけれど、積み上がったゲームで日頃のストレスを解消したいと思っていた。
少し憂鬱になりながらシャツに片腕を通した。
息が白くなり始めた十一月。
通い慣れた駅までの道を四十分かけて歩く。
往復にすれば一時間半以上を歩くだけに費やすことになるが、それは家賃を切り詰めるために必要な妥協点だと割り切っている。
満員電車に揺られながら、俺はいつものように窓の外を眺めていた。
この十一年間、同じ電車に揺られながら、自分に合った居場所を探そうとしているけれど、未だに見つかる気配はない。
俺が働いている向陽サービスの事務所は、雑居ビルの三階にある。
エレベーターの扉が開いた瞬間に漂ってくる。
紙とコーヒーと埃が混ざり合った匂いを嗅ぐと、少しだけ仕事に向き合う気持ちへと切り替わった。
デスクに着き、パソコンを立ち上げ、届いていた不具合報告の一覧に目を通す。
今日も自社ソフトのバグが生んだトラブルの後始末だ。
顧客先のオフィスに導入したシステムがまた固まった、印刷が出来ない、ログインできない――そんな問い合わせが、朝一番から次々とメールボックスに積み上がっていた。
リモートで直せるものはその場で対応し、原因が特定できないものはチェックリストに書き出して訪問予定に組み込む。
杜撰な設計をしたのは俺じゃないのに、尻拭いをするのはいつも現場だ。
「六月、また例のクライアントから催促か?」
隣の席の同僚がこちらを見ずにそう言った。
「あ、ああ」
俺はモニターを見たまま空返事をする。
挨拶程度の付き合いしかない同僚たちとの距離感は居心地が悪いというよりも、もはや馴染みすぎていて、それ以外のやり取りを想像することすら難しくなっていた。
午後になっても状況は変わらず、俺は淡々と画面と向き合い続けた。
パソコンの時計が十七時五十分を指した瞬間、俺の意識は半分だけ帰宅モードに切り替わる。
残りの半分は、まだ画面いっぱいに広がったエラーログに縛りつけられたままだった。
事務所の蛍光灯は白く冷たい光を放ち、換気の悪さと相まって、いつも微妙に埃っぽい空気を作り出している。
窓の外はもうとっぷりと暮れていて、隣のビルの看板が滲んだ橙色に光っていた。
キーボードを叩く音が徐々にまばらになっていく。
周りの席でも、帰り支度をする気配が漂い始めていた。
俺もノートパソコンを閉じ、鞄に手を伸ばす。
あと十分もすれば退勤の打刻ができる。
そう思った矢先だった。
「六月〜、六月く〜ん」
粘着質でまとわりつくような声が背中に張りついた。
振り返る前から、丸まった背中と、脂の浮いた額、皺の寄った安物のスーツが目に浮かぶ。
この会社に入社して十一年経つけれど、未だコレには慣れない。今では振り返らなくても課長だと分かる。
声だけでこちらの体温が一度下がる気がした。
「クライアントから連絡が入っちゃってさ、ちょっと見に行ってくれない?」
断るという選択肢が最初から存在しないこの空気にも、慣れることなど一生ないのだろうと思う。
俺は鞄を持ち直しながら「分かりました」とだけ答えた。
反抗する気力すら、この会社では贅沢品だった。
クライアント先の印刷会社までは電車で三十分、そこからさらに徒歩だ。
遠くに見えていた雑居ビルの明かりは、近づくにつれて古びた外壁の染みや、はげ落ちた塗装の跡をはっきりと浮かび上がらせていく。
印刷会社に着くと骨董品のようなサーバーを案内される。
システムの動作が遅く、不具合の原因を探るだけで二時間近くかかってしまった。
老朽化したサーバーの奥深くに眠っていた設定ミスを見つけたときには、もう窓の外は完全に夜の帷が下りていた。
サーバーの設定ファイルを書き換え、サービスを再起動する。
画面にエラーが消えたことを確認してから、念のため印刷テストを数回繰り返す。
担当者は何度も頭を下げていたが、俺は会釈を返すのが精一杯だった。
印刷会社を出ると時計は二十三時を回っていた。
人影の消えた歩道で課長へ電話をかける。
十二回目の呼び出し音でようやく繋がった。
「今何時だと思ってるんだ六月。これだから常識がない奴は困るんだ」
声のトーンが明らかに低い。
きっと、いつものキャバクラにいるのだろう。
「遅くなってすみません。完了報告と直帰許可を……」
「残業申請か? お前が無能なのが問題なんだから払えるわけないだろ。もう切るぞ――アミちゃ〜ん、おまたせ〜」
俺はそれ以上聞く気にもなれず、自分から通話を切った。
アミちゃんとやらはあの課長の声をどう思っているのだろう。
仕事と割り切って愛想を振りまいているのだろうか。
俺はスマートフォンをポケットに戻し、しばらく夜空を見上げた。
夜空に星はほとんど見えない。
ビルの明かりが空の暗さを塗りつぶしているせいだ。
終電はとっくに無くなっている時間帯で、タクシーを使う金銭的余裕はない。
仕方なく俺は歩き出すことにした。
印刷会社から三駅分の距離を歩く。
住宅街に入ると街頭が疎らになってくる。
深夜の住宅街に足音だけが妙に大きく響いた。
頬に当たる夜風は冷たく、コートの襟を立てながら俺は考える。
誰かに認められることもなく、ただ時間だけが磨り減っていく毎日。
それでも、この日常から抜け出そうという気力は湧いてこなかった。
目立つことは苦手だ。
人と違う道を選ぶ勇気があるわけでもない。
ただ心のどこかで人とは違う事をしてみたいという小さな願望が、いつの頃からか燻り続けている。
築三十年のアパートに辿り着いたのは、日付が変わってからだった。
錆びた外階段を上がり鍵を差し込む手には、寒さで感覚がほとんど残っていない。
四畳半一間の部屋はいつもの通り薄暗かった。
俺は鞄を放り出し、気付けば四年前から続けているオンラインRPGを起動していた。
剣を持ち、魔法を放ち、見知らぬ世界を旅する主人公たちの姿が画面の中で輝いている。
現実では手にできない力と自由が、そこにはあった。
現実の俺には縁のない話だと分かっていても、その光景を自分に重ねるだけで厳しい現実から目を背ける事ができる。
俺も誰かの役に立てる人間になりたいと思う。
画面の中なら誰かを救える。
現実には到底できないことだ。
だからなのかもしれない。
今日もまたゲームの世界へ逃げ込むのは。
ある程度ゲームを遊んで、コントローラーを置こうとした時だった。
スマートフォンが短く震える。
画面に浮かんだのは課長からのメッセージだ。
『明日の健康診断は無料なんだから、何があっても必ず行けよ』
俺は小さく息を吐いた。
うちの会社が健康診断にこだわる理由なんて考えたこともなかった。
そんなことを考えながらゲーム機の電源を落とす時にテーブルのハガキが目についた。
(そう言えば精密検査って小さく書いてあったよな)
どんな検査をするのだろうと思いながら、布団へ倒れ込んだ。
何にしても明日は休みだ。
少しだけゆっくり眠れる。
そう思って目を閉じる直前、瞼の裏に天井のシミ模様が浮かぶ。
不思議とソレは何かの刻印のような形にも思えた。
(……気のせいだ)
そう結論づけて俺は眠りに落ちていった。




