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第十話 特別行政区 学術院

 朝食の会場に案内された瞬間、俺は思わず足を止めた。


 最上階の宴会場には、目にする料理の数だけでゆうに五十を超えるであろうビュッフェが並んでいた。

 焼きたてのパンの香ばしい匂い、炭火で炙られた肉の薫り、色とりどりのフルーツが盛られたガラスの器。

 どれもこれも、コンビニ弁当をかじりながら育ってきた三十一年間の食生活とは、まるで別世界の光景だった。


「遠慮しないで、好きなだけ取っていいのよ」


 宮司さんはそう言うと、当然のように大皿へ料理を盛っていく。

 俺はぎこちない足取りで皿を手に取ったが、結局、何を選べばいいのか分からないまま、目についたものを適当に取り分けることしかできなかった。


 窓際の席に着き、朝食を済ませる。

 味は間違いなく美味しかったはずなのに、緊張のせいか、はっきりとした感触が残らない。

 食後、運ばれてきたコーヒーに口をつけたところで、宮司さんが不意に席を立った。


「足を手配してくるわ。ちょっと待っててね」


 そう言って、宮司はきらびやかなレストランの奥へと姿を消した。


   ☆


 一人残された俺は、白いテーブルクロスの上に置かれたコーヒーカップを見つめたまま、落ち着かない気持ちを持て余していた。

 シャンデリアの光を浴びて輝く食器、静かに流れる弦楽器の音色、遠くの席で談笑する身なりの良いお客達。


 どれもが、自分にはあまりに不釣り合いだった。


 それに、昨日の路地裏での出来事が、まだ記憶に生々しく残っている。

 あの光景を、こんな穏やかな空間で思い返していること自体が、どこか現実感を欠いていた。


 数分ほど経った頃だろうか。


「おまたせ」


 軽い足取りで戻ってきた宮司さんは、いつも通りの甘ったるい

笑みを浮かべていた。

 そして手にしたスマートフォンをしまい込む。


「なんだか不安そうな顔ねえ。ここは安心よお、だって皐月コンツェルンが運営するホテルだから」


「――皐月、コンツェルン、ですか?」


 聞き覚えのない単語に、俺は首を傾げた。

 宮司はコーヒーを一口含んでから、悪戯っぽく笑う。


「そう、学術院の超名門と言えば分かりやすいかしら」


「超名門……」


「だからこのホテルなら、変な人間は簡単に入り込めない。裏の事情まで含めて、信用できる場所ってわけ」


 なるほど、と俺は小さく頷いた。

 理屈のすべてを理解できたわけではなかったが、少なくとも、この場所が安全な理由の一端は呑み込めた気がした。


 納得しかけたところで、身なりの良いウェイトレスが静かに歩み寄ってきた。


「宮司様、出発の準備が整いました」


「ありがとう。じゃ、行きましょうか」


 宮司はそう言って立ち上がると、俺を促してレストランを後にした。


   ☆


 豪華なレストランを出ると、エスカレーターホールに、一人の老紳士が姿勢良く立っていた。


 仕立ての良い燕尾服に白い手袋。

 年齢を感じさせない背筋の伸びた立ち姿は、テレビの中でしか見たことのない執事そのものだった。

 俺たちの姿を認めると、老紳士は音もなく一礼し、慣れた動作で先導を始める。


「こちらへどうぞ」


 俺と宮司さんは、その後を黙ってついていった。

 エレベーターの中に入って扉が閉まると、老紳士は脇にあるパネルへ向き直り、迷いのない操作でいくつかのボタンを、順番も何もなく適当に押していく。


(なんだ、あれ)


 俺が疑問に思っていると、宮司さんが小さな声で耳打ちしてきた。


「暗号になっているのよ」


「――暗号?」


「あの押す順番自体が合言葉みたいなものなの。知らない人間が乗ろうとしても、まず正しい場所には辿り着けないわ」


 説明を受けても、俺には仕組みの詳細までは分からなかった。

 ただ、これほどまでに厳重な仕掛けが施されていること自体が、この建物の異質さを物語っているように思えた。


 動き出したエレベーターは確かに上昇している感覚があるのに、階数を示すパネルの表示だけは、頑なに地下の数字から動こうとしなかった。

 目に見える数字と、身体が感じる感覚がまるで噛み合わない。


 その違和感に、俺は思わず眉を寄せた。


 やがて、小さな電子音とともに扉が開く。

 エレベーターから出ると小さな小部屋があり、更に奥には頑丈そうな扉あった。

 宮司さんは慣れた動作で扉を開けた。


 目の前に広がったのは、これまでの豪奢な内装とは打って変わって、風の吹き抜ける開放的な空間だった。

 強い日差しが視界を白く染め、思わず目を細める。


「十一月なのに寒くない?」


 宮司さんは頷いて屋上の外周を指差した。


「不思議でしょう? これも魔道具のおかげね」


「……魔道具」


 聞き慣れない言葉を反芻する。


「そう魔道具よ。魔法が使える宝石、と言えば分かりやすいかしら」


「そんな物があるんですか?」


 それは俺の常識の斜め上を行く内容だった。魔法を知った今となっては、今更のような気はするけれど。


「ええ、あるわ。特に皐月家は、魔道具の研究が進んでいる家でね。何処かの有名な海外の企業と、共同で研究しているらしいわ」


「……そうなんですね」


「皐月家が得意な風の魔法で、ホテルの屋上を囲っているみたいね。だから屋上では風を感じないし、飛行機を飛ばすこともできる」


 宮司さんが指し示した方向に、自家用飛行機が一機、静かに翼を休めていた。


「高い場所は大丈夫よね?」


 宮司が振り返って、俺の顔を覗き込んでくる。

 俺は言葉に詰まりながらも、小さく頷いた。

 飛行機に乗るのは、これが生まれて初めてのことだった。


 タラップを上る宮司の後を、俺は恐る恐る追いかける。

 革張りの座席に腰を下ろすと、ようやく身体の緊張が実感として伝わってきた。


   ☆


 機体が滑走路を離れ、身体がふわりと浮くような感覚に包まれる。

 窓の外には、みるみるうちに小さくなっていく都心のビル群が広がっていた。


 落ち着かないまま座席に身を沈めていると、隣に座った宮司さんが口を開いた。


「向陽サービスとの雇用契約は、国の方で手続きを終えているわ」


「え……」


「それから、アパートの契約も解約済みよ。荷物は後日、まとめて学術院の方に届けさせるから安心して」


 あまりにも淡々とした報告に、俺は言葉を返せなかった。

 自分の意思とは無関係のところで、十一年勤めた会社との縁も、四畳半の部屋との縁も、すでに断ち切られていたのだ。

 決断したのは自分自身だったはずなのに、その決断の後始末は、俺の知らないところで着々と進められていた。

 

 実感が湧かないまま、俺はただ小さく頷くことしかできなかった。


「そんな顔しないで。これから先の話をしましょうか」


 宮司さんはそう言うと、姿勢を正して続けた。


「まず、魔力回路持ちがどれくらい珍しいか知ってる?」


「いえ、まったく」


「日本の人口はざっと一億二千万人。そのうち、魔力回路を持ってるのは、学術院にいる約四万人だけ」


 あまりの数字の乖離に、俺は思わず息を呑んだ。

 四万人という数字だけを聞けば多いようにも思えるが、一億二千万人という母数と比べれば、それは限りなくゼロに近い割合だった。


「これは世界的に見ても秘匿されてる事実なの。政府がひた隠しにしてる、っていうのが正確なところね」


「どうして、そこまで隠す必要があるんですか」


「魔法なんて力が公になったら、世界がどうなるか分からないでしょう?悪用しようとする組織も出てくるし、差別や迫害の対象になる可能性だってある。かつての魔女狩りのようにね。だから国は、魔力回路持ちを保護という名目で、隔離してるってわけ」


 保護という言葉の裏に隠された、もう一つの意味合いを聞かされた気がして、俺は複雑な感情を抱いた。

 守られているのか、それとも囲われているのか。

 その境界線は、今の俺にはまだ判然としない。


「学術院の中には、いくつか区画があってね。上位の魔力回路持ちが住む一区、教育機関が集まった二区、あたし達みたいな一般的な保護対象が住む三区、それから――」


 宮司さんは声音を一段下げて続ける。


「――堕天した人たちが集まる四区。あんたはまず三区に住むことになるわ」


「堕天……?」


「一年経っても魔法が使えるようにならないと、暮らしの水準を落とされるの。詳しいことはおいおい説明するけど、覚えておいて損はないわ」


 初めて聞く単語の重さに、俺は言葉を失った。

 楽園のような場所だと思っていた学術院にも、明確な線引きが存在するらしい。

 想像の中の学術院と、この不穏な単語の落差が、俺の中でどうしても噛み合わなかった。


「あと、生活費もスサノオでの成績によって変わってくる。頑張れば頑張るほど、暮らし向きは良くなるってわけね」


 説明を聞けば聞くほど、学術院という場所の輪郭が、少しずつ立体的な形を帯びていく。

 ただの保護施設ではない。そこには、俺がこれまで生きてきた社会と地続きの、競争と選別の構造が確かに存在しているようだった。


 機内アナウンスも何もないまま、時間だけが静かに過ぎていく。

 俺は宮司の説明に相槌を打ちながらも、頭の中では次々と浮かんでは消えていく疑問を持て余していた。


 一時間ほど経った頃だろうか。

 ふと、機体がゆるやかに高度を下げ始めたのが分かった。


「そろそろ着くわよ」


 宮司の声に促されて、俺は窓の外へ視線を向けた。


 雲の切れ間から、地上の景色が徐々にはっきりとしてくる。

 緑に囲まれた広大な土地の中央に、高層ビルほどもある白い壁が山脈のように連なり、その内側だけが別世界になっている。

 まるで一つの国そのものを囲い込むような、途方もない規模の城壁だ。


 その内側には、近未来的な建造物が整然と立ち並び、太陽の光を受けて銀色に輝いている。

 俺は言葉を失ったまま、窓ガラスに額が触れそうなほど身を乗り出していた。


 あの巨大な壁の向こうに――学術院がある。

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