第十一話 この新しい場所で
ビルの最上階に降り立った瞬間、まず肌を打ったのは、これまでと全く違う空気だった。
澄んでいるとも、乾いているとも言い切れない、これまで嗅いだことのない空気。
タラップを降りきったところで、俺は思わず足を止め、辺りを見渡した。
視界いっぱいに広がっていたのは、上空から見た時よりもさらに現実離れした光景だった。
このビルの周囲を取り囲むようにして、いくつもの区画が整然と配置されていた。
区画と区画の境目すら、定規で引いたように寸分の狂いもなく整えられている。
「このビルが学術院の中心、特区――天之御柱よ」
宮司さんが、つま先でコツンと地面を軽く蹴る。
「学術院を運営する理事会が入ってるビルね。あんたの住民登録も、まずは天之御柱で済ませることになるわ」
この御柱を中心に見渡すと、北の方角には、これまで見たことが無いような意匠を凝らした街並みが広がっていた。
商業区、病院区、中央庁舎が集まっているのだと、宮司さんが指を差しながら説明してくれる。
ガラス張りの高層建築が並ぶその一帯は、遠目にも生活の匂いが漂う雑然さとは無縁の、整いすぎた美しさを感じさせた。
東側には、同じく近未来的な建造物が立ち並び、二区と呼ばれる居住区、魔法を学ぶスサノオや魔法交通局、魔法工学研究所が立ち並ぶ。
視線を西へ移すと、街並みの雰囲気が少しだけ変わる。
近代的、という言葉がしっくりくる整然とした街区が、三区として広がっていた。
そして南側――四区と呼ばれる区画だけは、他の区画と比べて明らかに落ち着いた、都内みたいなという表現がふさわしい佇まいをしている。
心なしか、建物の並びにも他の区画ほどの統一感は見られなかった。
同じ学術院という括りの中に、これほどまでに異なる表情の街並みが同居している。
その事実だけで、この場所が単なる保護施設ではないことを、否応なく理解させられた。
豪華さと落ち着きの度合いが、そのまま区画ごとの序列を物語っているようにも見えて、俺は言いようのない緊張を覚えた。
「さ、行きましょう」
宮司さんに促され、俺は天之御柱の入り口へと足を進めた。
☆
バベルの内部は、外観に負けず劣らず異様な空間だった。
壁や床には磨き上げられた石材が、敷き詰められている。
行き交う人々の中には、明らかに一般的な服装とは異なる、杖のようなものを腰に下げた者の姿もあった。
すれ違いざまに交わされる視線一つ一つが、何かを値踏みするような鋭さを帯びている気がして、俺は自然と俯きがちになった。
案内された十階には、管理局と表示された窓口が並んでいた。
宮司さんが受付の職員に何事か告げると、俺はすぐに個室のような検査ブースへと通される。
「これに触れてちょうだい」
差し出されたパネルに手のひらを乗せると、淡い光が指先から掌全体を包み込んだ。
温かくも冷たくもない、不思議な感触が肌を這う。
数秒後、パネルの向こうに設置されたモニターに、俺の身長、体重、血液型、既往歴らしき情報が次々と表示されていった。
(……こんな情報まで一瞬で分かるのか)
驚いている間もなく、画面の一番下に、見慣れない項目が浮かび上がる。
スコア――C。
「へえ、悪くない数値じゃない」
背後から画面を覗き込んだ宮司さんが、感心したように呟いた。
数値の意味も分からないまま、俺はただ頷くしかなかった。
良いのか悪いのか、判断のしようがない自分がもどかしい。
しばらくして、住民登録は無事に完了した旨を告げる音声が流れ、検査ブースの扉が開いた。
「これで、あんたは正式に学術院の住民よ」
宮司の言葉に、俺は改めて自分の置かれた立場を実感する。
もう後戻りはできない。
そのことを、頭ではなく、肌で理解した瞬間だった。
書類の一枚も交わしていないのに、自分という存在の輪郭が、静かに、しかし確実に塗り替えられていく感覚があった。
☆
「じゃあ、住むところに案内するわね」
天之御柱を出た宮司さんに連れられ、俺は駅らしき建物へと向かった。
地下に張り巡らされたそれは、想像していた地下鉄とは違い、無数の小さなリニアが規則正しく行き交う、見たこともない交通網だった。
ホームで待つこと数分、静かに滑り込んできた車両に乗り込
む。
走行音はほとんど無く、代わりに微かな振動だけが座面から伝わってきた。
最寄りの駅で降りると、あとは徒歩で目的地へ向かうことになった。
整備された歩道を歩きながら、俺は周囲の建物を眺める。
三区の街並みは、朝方まで泊まっていたあの超豪華ホテルと遜色のない外観のマンションが、通りの両側に立ち並んでいた。
道すがら、スーパーマーケットらしき店舗や、洒落たカフェ、洗練された外観の商業施設が次々と目に入る。
生活に不便することなど、まず無さそうだった。
歩道を行き交う人々の表情には、これまで見てきたどの街の住人よりも余裕が滲んでいるように見えた。
学生くらいの男女が笑いながら俺たちの横を通り過ぎた。
一人が歩きながら指先から小さな火を灯す。
「上手く操作できるになったでしょ?」
もう一人が笑いながら小さな火に息を吹きかけると、またたく間に小さな灯火は消えてしまった
「もうっ! せっかく灯けたのに!」
「今度、もっと効率の良い方法を教えてあげるよ」
その光景を見て足が止まる。
「……」
「あれが普通よ」
軽く肩を叩かれて、再び俺たちは歩き出した。
☆
「ここよ」
宮司さんが足を止めたのは、その中でもひときわ落ち着いた佇まいのマンションだった。
エントランスをくぐり、案内された部屋は二階の一番奥にある。
「扉に触れてみて」
言われるままドアノブに触れると、小さな電子音とともに鍵が開いた。
「あんたの魔素で個人を特定してるの。鍵とか暗証番号とか、そういう面倒なものは学術院じゃ必要ないってわけ」
説明を聞きながら、俺は自分の身体そのものが、この世界における一種の身分証になっているのだという事実に、改めて奇妙な感覚を覚えた。
指紋でもなく、顔でもなく、身体の内側に眠るものが自分を証明する。
それは便利さの反面、どこか逃げ場のない檻のようにも思えた。
☆
扉を開けて中に入ると、想像していたよりもさらに広い空間が待っていた。
リビング、ダイニング、キッチンに加えて、寝室らしき部屋が二つ。
三LDKという間取りは、四畳半一間で暮らしてきた俺にとって、あまりにも贅沢な広さだった。
家具や家電の類も、すでに一通り揃えられている。
ソファ一つ取っても、これまでの人生では手が届かなかったであろう上質な革張りだった。
キッチンには使い込まれた形跡のない調理器具が整然と並び、冷蔵庫の中まで最低限の食材が用意されているらしい。
「それじゃあ、また明日来るわね。十一時くらいでいいかしら?」
宮司さんはそう言うと、軽い足取りで玄関を出ていった。
扉が静かに閉まる音を聞き届けてから、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
急に訪れた静寂が、かえって現実感を運んでくる。
☆
一人きりになった部屋の中で、俺は部屋の中を見渡していた。
豪華なソファ、大きい冷蔵庫、広々としたベッド、多機能なバスルーム。
どれも過ぎた代物だ。
一通り確認した後、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。
柔らかい座面が身体を受け止める。
その感触に、ようやく強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
健康診断から始まり、内閣府特区管理局との邂逅、路地裏の襲撃、宮司さんの告白。
そして今日という日まで、目まぐるしく状況が変わり続けていた。
窓の外を見ると、見慣れない街並みが夕暮れの光に染まり始めている。
あの雑居ビルの三階も、四畳半のアパートも、もうここからは見えない。
それどころか、この街のどこにも、これまでの自分を知る人間は一人もいなかった。
課長の粘着質な声も、挨拶程度で終わる同僚たちとの距離感も、天井のシミも、何もかもが遠い過去のものになった。
それを寂しいと思う気持ちが無いわけではない。
だが同時に、これまで一度も踏み出したことのなかった場所に、確かに自分の足で立っているのだという実感が、じわりと胸の奥に広がっていく。
(目立つ事はしたくない、と思って生きてきたのにな)
心のどこかで燻っていた、人とは違う一歩を踏み出してみたいという小さな願望。
今までは、ゲームという小さな箱の中でそれを満たしていた。
それが、こんな形で現実になるとは想像もしていなかった。
だが、選んだ道である以上、もう後ろを振り返っている場合ではない。
この部屋も、この街も、まだ何一つ馴染んではいない。
それでも、少しずつ自分の場所にしていくしかないのだと、俺は静かに自分へ言い聞かせた。
ソファに深く身を沈めながら、俺は静かに呟いた。
「ここが――俺の新しい場所だ」
その一言には、緊張と不安と、そして確かな覚悟が、等しく滲んでいた。




