幕間 その後の向陽サービス
六月が退職して、一週間が経った。
向陽サービスの事務所は、いつも通りの薄暗い蛍光灯と、いつも通りの埃っぽい空気に満ちている。
コーヒーの染みがついた給湯室のマグカップも、書類が積み上がったデスクも、何一つ変わってはいない。
ただ一点、いつも通りではないことがあるとすれば、それは課長のデスク周りに積み上がった書類の量だった。
「あー、くそ。何でこんなに残ってんだよ」
課長は舌打ち混じりに呟きながら、キーボードを叩いていた。
時刻はとうに二十一時を回っている。
それでも画面に表示された未対応案件の一覧は、一向に減る気配を見せなかった。
フロアに残っているのは、もう課長一人だけだった。
課長には確信があった。
無能な社員が一人減れば、その分だけ業務は円滑に回るはずだ。
サービス残業を垂れ流していたあの男がいなくなれば、むしろ効率は上がる。
厄介払いができて清々する、とさえ思っていた。
あの陰気な後ろ姿を見なくて済むだけでも儲けものだ、と。
そう本気で信じていた。
だが、現実は課長の思惑とは正反対に転がっていった。
「おい、ちょっとこの案件やっといてくれよ」
「すみません、今日は定時で帰らせてもらいます」
定時のチャイムと同時に鞄を持った社員へ声をかけると、あっさりと断られた。
以前ならば、多少渋りながらも最終的には引き受けていたはずの社員だった。
だが今は、誰も彼も判で押したように同じ言葉を返してくる。
何かが変わったというよりも、これまで無理を通せていたこと自体が、実は綱渡りの均衡の上に成り立っていたのだと、課長はまだ気付いていなかった。
「あ、そう……」
力なく頷く課長を尻目に、フロアの明かりは一つ、また一つと消えていく。
残るのは課長一人と、山積みの案件だけだった。
パソコンのファンが唸る音だけが、静まり返った事務所に低く響いていた。
(今日もアミちゃんに会えねえな……)
行きつけの店に足を運んだのは、いつだっただろう。
パソコンの画面を睨みながら、課長は深いため息をついた。
時刻はいつの間にか日付を跨いでいる。
終電はとうに無くなっていた。
☆
翌日、出社した課長を待っていたのは、さらに絶望的な光景だった。
昨夜、遅くまで残って片付けたはずの案件が、朝一番でまた同じ数だけ積み上がっている。
クライアントからの新規問い合わせが、寝る間も惜しんで対応した昨日の分をあっさりと上回っていたのだ。
まるで底の抜けた水槽に、必死に水を注ぎ続けているような徒労感が、課長の背中にのしかかっていた。
「なんでだよ……」
呆然と画面を見つめる課長の隣で、若手社員が気まずそうに口を開いた。
「課長、これ、無理ですよ。一人であの数を捌くのは」
「お前らで手分けすればいいだろうが」
「いや、そういう問題じゃなくて」
社員は言いにくそうに、それでもはっきりと続けた。
「あれ、本当は一人分の仕事じゃなかったんですよね……」
その一言に、課長は思わず眉根を寄せた。
無能だと思っていた男の影が、こんな形で出てくるとは想像もしていなかった。
挨拶程度の付き合いしかなく、フロアの隅で黙々とパソコンに向かっていただけの、あの目立たない男が。
だが、目の前に積まれた案件の山を見れば、反論の余地もない。
思い返してみれば、深夜のクレーム対応も、休日の緊急呼び出しも、何かあれば真っ先に押し付けていたのはあの男だった。
断らないから、文句を言わないから、都合が良かった。
その「都合の良さ」が、実際にはどれほどの仕事量を一人で支えていたのか、課長は今になって初めて突きつけられていた。
それから課長は、毎日のように残業を重ねた。
休日出勤も厭わず、必死にキーボードを叩き続けた。
それでも案件は一向に減る気配はない。
そんな日々がひたすら続いていった。
目の下の隈は日に日に濃くなり、机の上のコーヒーカップの数だけが、やけに増えていった。
☆
ようやく仕事が落ち着きを見せ始めたのは、六月が辞めてから二ヶ月が過ぎた頃だった。
久しぶりのキャバクラに、課長の足取りはどこか浮ついていた。
ネオンの光がいつもより眩しく感じられるのは、それだけ長く陽の当たらない生活を送ってきた証拠でもあった。
「アミちゃん、いつものボトル持ってきてくれ」
久しぶりの店内で、課長は上機嫌にそう告げた。
だが、返ってきたのは見慣れない黒服の店員からの、意外な言葉だった。
「アミですか? アミなら先月、寿退社しましたよ」
「――は?」
課長の口から、間の抜けた声が漏れた。
行きつけの店で唯一気を許していた相手が、自分の知らないうちに人生の門出を迎えていた。
この現実に、しばらく言葉が出てこなかった。
この二ヶ月間、自分がいったい何のために働き詰めてきたのか、その拠り所の一つが、静かに消えていた。
やけになった課長は、いつも以上に酒を飲だ。
景気よくボトルを何本も入れ、憂さを晴らすように杯を重ねる。
若い黒服の店員が、次々と新しいグラスを運んでくるたび、課長はそれを景気よく呷り続けた。
翌朝、渡された請求書を見た瞬間、課長の顔からみるみる血の気が引いていった。
「な、なんだこの金額は……」
自分の給料では払いきれない数字が、そこには並んでいた。
震える手で財布を漁りながら、課長は天を仰ぐように叫んだ。
「六月い、頼むから戻ってきてくれぇ〜」
その声は、朝の静かな店内に、虚しく響き渡っていった。
☆
「未経験歓迎・残業ほぼ無し」
その後、向陽サービスからこんな内容の求人広告が打たれた。




