幕間 いつもと変わらない朝
早朝六時、まだ空が白み始めたばかりの時間に、わたしの一日は始まる。
黒髪を一つに束ね、寝間着から動きやすい稽古着に着替える。
鏡に映る自分の顔を一瞥してから、わたしは静かに部屋を出た。
屋敷の廊下はまだ冷え切っていて、素足の裏に床の冷たさが染み渡る。
この時間の静けさだけは、誰にも邪魔されることがない。
庭に面した縁側で、まずは入念に身体をほぐしていく。
踵を伸ばし、腰を捻り、肩甲骨の一つ一つまで意識を通す。
冷えた朝の空気が肌を刺すが、その冷たさすら、今のわたしには心地よい。
物心がついた頃から繰り返してきた所作は、もはや身体の一部と言ってもよかった。
柔軟を終えると、屋敷の敷地をぐるりと囲む庭園を、決まった周回数だけ走る。
呼吸のリズムを一定に保ちながら、足の裏で土を踏みしめる感触を確かめる。
庭木の合間から漏れる朝日が、走るたびに視界の端を横切っていった。
祖父や兄のように、生まれながらにして高い適性を持っているわけではない。
それでも、積み重ねだけは誰にも劣らないでいたい。
その一心で、わたしは毎朝この時間を守り続けている。
汗が滲み始めた頃、わたしは足を止め、両の掌を前に構えた。
瞼を閉じ、身体の内側に眠る回路へ意識を沈める。
魔力が全身を巡り始める感覚。
わたしは掌の上に水の玉を想像する。
同時に野球のボールほどの大きさをした、水球が形作られていく。透明な球体は、朝日を受けてわずかに輝いていた。
水球を押し出すイメージで、掌を少し前に差し出す。
想像した動きに倣い、球体はゆらゆらと前方に飛んでいく。
狙いは霜月家ができた、五百年前からあると言われている巨木。
定めた庭木の幹に、規則正しく水が弾ける音が響いた。
今度は蹴球ほどの大きさを思い描き、魔力を流し込む。
水球は形になった。けれど――重い。
放った瞬間、球体は速度を失い、大きく弧を描いて地面へ落ちた。
出力を上げようとすると、途端に制御が乱れてしまう。
制御力にはそれなりの自信があったけれど、今の結果を考えるとまだまだ鍛錬が足りないと感じる。
祖父や兄と比べれば、わたしは全く及ばない。
お兄様なら、この程度の水球であれば縦横無尽に操れるはずだ。
だからこそ、この積み重ねを疎かにはできなかった。
無能、という言葉を誰かに投げつけられたわけではない。
それでも、家族からそう見られているだろうという予感だけは、いつも胸の奥に張り付いている。
☆
水魔法の鍛錬を終えると、わたしは庭の奥にある小さな滝へと向かう。
人工的に作られたその滝は、屋敷の敷地内にありながら、天然の渓流のような佇まいを保っていた。
苔むした岩肌を伝って落ちる水は、朝の光を受けて白く輝いている。
着替えを済ませ、滝壺の中央に立つ。
冷たい水が肩に落ちてくる瞬間、頭の中に渦巻いていた雑念が、一気に洗い流されていくような感覚に包まれる。
水の音だけが、耳の中を満たしていく。
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ませていくうちに、思考が澄んだ水面のように静かになっていった。
この時間だけは、副局長という肩書きも、旧月家の序列も、婚約者との関係も、すべてが遠くへ退いていく。
ただの「霜月凛」がここにいる。
それだけで十分だった。
洸介さんとの来月の予定も、祖父から示された婚約の意図も、この水音の中では意味を持たない。
二時間の鍛錬を終える頃には、東の空がすっかり明るくなっていた。
☆
着替えを済ませ、食堂へ向かうと、すでに朝食の支度が整えられていた。
白米、焼き魚、出汁の効いた味噌汁、小鉢に盛られた野菜の煮物。
栄養の均衡を考え抜かれた献立は、幼い頃から変わらない。
一つ一つを丁寧に味わいながら、わたしは今日の予定を頭の中で組み立てていく。
管理局での定例報告、書類の確認、いくつかの現場掌握。
特別変わったところのない、いつも通りの一日が待っている。
箸を進める手の動きすら、無駄を削ぎ落とす。
それが誇らしくもあり、同時にどこか息苦しくもあった。
食事を終えると、部屋に戻って出社の準備を始める。
黒のパンツスーツに着替え、鏡の前で身だしなみを整える。
皺一つない生地に、乱れのない髪。
すべてが整い、わたしは玄関へ足を向けようとした。
その時、タブレットが小さく震えた。
お兄さ……局長から秘匿回線だった。
この時間に連絡が入ることさえ珍しいのに、秘匿回線を使うというのは余程の事だと思えた。
「お兄様?」
わずかに眉を寄せながら、わたしは通話に応じた。
「おはよう、凛。急な話で悪いんだけど」
「どうかされましたか?」
「今日付けで、学術院の講師として動いてほしいんだ」
思いがけない申し出に、わたしは一瞬だけ言葉に詰まった。
管理局の副局長という立場のまま、講師としての仕事を兼務しろということなのだろうか。それとも――。
「理由をお伺いしても?」
「新しく保護対象になった魔力回路持ちの中に、目をかけておきたい生徒がいてね。君が適任だと思ったんだ」
お兄様の声に、いつもと変わらない静かな響きがあった。
だが、その裏に何かしらの意図が隠されていることも、長年の兄妹としての付き合いから、わたしには何となく察せられた。
お兄様が理由もなく人事を動かすことなど、これまで一度も無かったのだから。
「分かりました。お引き受けします」
即答したわたしに、電話の向こうで小さく笑う気配がした。
「ありがとう。詳しい話は追って送るよ」
「かしこまりました」
通話を切ると、わたしはしばらくその場に立ち尽くしていた。
管理局からスサノオへ。
出社先が変わるという事実よりも、兄が何を見据えてこの人事を組んだのか、そちらの方が気にかかっていた。
目をかけておきたい生徒、という言葉の裏に、どれほどの重みが込められているのか、今のわたしにはまだ測りかねる。
けれども、深く考えていても仕方がない。
わたしは気持ちを切り替えるように、もう一度鏡に向き直った。
映った自分の表情は、いつもと変わらない。
それでいい、と小さく思う。
今日から、通う場所が変わる。
わたしは玄関を出て、澄んだ朝の空気を吸い込む。
「目をかけておきたい生徒……」
お兄様の言葉が、不思議と胸の奥に残っていた。




