幕間 歪んだ恋心
学術院二区、皐月コンツェルンが経営する超高級ホテルの最上階には、名うてのレストランがある。
予約は一年先まで埋まっているというその店内に、今夜、客の姿はたった二人しかいない。
この店を完全に貸し切りにするということが、どれほど大きな意味を持つのか。
それを理解できる人間は、この学術院には多くはいない。
一人は、このホテルのオーナーの一人息子、皐月洸介。
前髪を切りそろえ真面目な青年を絵に描いたような風貌に、仕立ての良いジャケットを合わせている。
もう一人は、洸介の婚約者である霜月凛だった。
弦楽器の奏でる調べが、店内に穏やかな空気を漂わせている。
窓の外には、学術院の夜景が広がっていた。
宝石を散りばめたように輝く街並みは、二人の為だけに用意された舞台のようにも見える。
だが、その優雅な演出とは裏腹に、テーブルを挟んだ二人の間には、決して埋まらない温度差があった。
「最近、東側の魔法工学研究所で新しい魔道具の開発が進んでるらしいんだ。凛さんはそういうの興味ある?」
洸介は矢継ぎ早に話題を提供していく。
政治、経済、スポーツ、芸能などの一般的な話題はすでに撃ち尽くした後だ。
会話が途切れることが怖くて、口数でそれを補おうとしていた。
「……そうですか」
凛は一言二言返すだけで、あとは表情一つ変えることなく、粛々と食事を進めている。
フォークとナイフを操る所作にすら、これ以上会話を続けるつもりはないという意思が滲んでいた。
皿の上の料理は丁寧に、しかし機械的な正確さで減っていく。
(また、これか……)
洸介は背中に冷たいものが伝うのを感じながらも、平静を装って次の話題を口にした。
この反応の無さには未だ慣れることはできない。
何度、逢瀬を重ねても、埋まらない距離感をずっと感じていた。
☆
そもそも、この婚約は霜月家からの提案で始まったものだった。
皐月家としては、格下である霜月家から嫁を迎える気などなかった。
旧月十二家の家格でいえば、皐月は五位、霜月は十一位。
序列だけを見れば、明らかに釣り合わない縁談だ。
洸介自身も、女性との付き合いなど金で買えるものだ、と高を括っていて、この縁談に前向きではなかった。
三十年前、旧月十二家の中で序列一位の睦月家が、重大な犯罪を犯しているという内容で、霜月家によって討たれた。
その頃から旧月家の状況に変化が生じ始める。
最近になって、序列二位の如月家から嫁に迎え入れた霜月家の勢いは、看過できる規模ではなくなっていた。
家格という古い基準だけでは測れない、実質的な影響力がそこにはあった。
皐月家としても、この縁を無下にはできなくなっていた。
それは顔合わせだけでも、という後ろ向きな空気の中で始まった見合いだった。
そこで洸介は凛の姿を目にした瞬間、雷に打たれたように一目惚れしてしまう。
初めて笑わせたいと思った。
初めて手に入れたいと思った。
初めて誰にも渡したくないと思った。
それまで、金で手に入らないものなど存在しないと信じていた男が、生まれて初めて出会った、どうしても手に入れたい相手だった。
そこから婚約に至るまでは、あっという間だった。
だが、いくら言葉を尽くしても、凛の態度は変わらない。
今日もこれまでと変わらない結果で終わりそうだった。
洸介は、いくつかの話題が尽きかけたところで、思い切って踏み込んだ。
「今夜は、このホテルに部屋を取ってあるんだ。良かったら、もう少しゆっくり――」
その一言を最後まで言い切る前に、凛はナプキンを静かに置いた。
「洸介さん、本日はご馳走様でした。私はこれで失礼します」
いつもと変わらぬ温度感のない声で、凛は席を立った。
振り返ることもなく、そのまま店を後にしていく。
その背中には、迷いや躊躇いは一切見えなかった。
残された洸介は、しばらくその場に呆然と座り込んでいた。
またしても、思惑は外れたらしい。
窓の外に広がる夜景だけが、いつまでも変わらず輝き続けていた。
☆
自宅に戻った洸介は、居間で待っていた両親に、今夜のことを一通り報告した。
「相変わらず、つれない態度だったようだね」
父親は、息子の恋心をとうに把握しているようだった。
呆れとも同情ともつかない口調でそう漏らす。
息子の落胆した表情を一瞥すると、母親が思い出したように口を開いた。
「そういえば、耳寄りな話があるのだけれど。霜月凛さん、学術院の担任に内定したそうよ」
「――え?」
思いがけない情報に、洸介は思わず顔を上げた。
今まで手が届かなかった相手が、急に自分の生活圏の内側へと近づいてくる。
その事実が、洸介の中でじわじわと形を変えていった。
落胆に沈んでいたはずの表情に、みるみる光が戻っていく。
自室に戻った洸介の口元には、粘つくような笑みが浮かんでいた。
(まずは困らせて、それから手を差し伸べればいい。そうすれば、僕を見る目も変わるはずだ)
単純な理屈だったが、洸介はその筋書きに、根拠のない自信を抱いていた。
これまで欲しいものは、金の力でどうにでもなってきた。
今回も、やり方さえ間違えなければ同じはずだ。
相手の弱みを作り、そこに救いの手を差し伸べる。
そうすれば、感情など後からいくらでも付いてくる。
そう信じて疑わなかった。
☆
タブレットを立ち上げ、秘匿回線を呼び出す。
呼び出し先は、堕天した長月家の分家筋だった。
コール音は一度も鳴らないうちに繋がった。
「――もしもし」
電話越しに聞こえてきた声には、隠しきれない緊張が滲んでいる。
この学術院において、旧月十二家の意向は絶対だ。
ましてや堕天という立場に落とされた長月の分家は、そのことを誰よりも骨身に染みて理解していた。
ましてや皐月家からの連絡を無視するという選択肢など、初めから存在しなかった。
「学術院のあるクラスで、問題を起こして欲しい」
洸介は前置きもなく、そう命じた。電話の向こうで、しばらく沈黙が続く。
『どの程度でしょうか?』
「……教師として信用を失う程度でいい」
『……理由を、お伺いしても?』
「必要ない」
質問ができるという選択肢が、最初から存在しないことを、相手もよく分かっているのだろう。
「――承知いたしました」
やがて、力なく了承の返事が返ってきた。
洸介はそれだけ聞くと、あっさりと通話を切った。
相手の事情や心情を慮る素振りは、微塵も見せなかった。
続けて、洸介は再び端末を操作し、父親に電話をかける。
「長月の分家筋の子を一人、凛さんの担当するクラスに転入させてほしいんだ」
用件を伝えると、両親からはすぐに了承の返事が返ってきた。
皐月家の力をもってすれば、それくらいの手続きなど造作もないことだった。
学術院という閉じた世界の中では、金と血統の重みは絶対的な効力を持っている。
了承を得たことで、洸介の思考はさらに加速していく。
「それと――僕自身も、学術院に入学しようと思う」
その提案に、父親は一瞬だけ驚いたような沈黙を見せたが、すぐに快くそれを受け入れた。
一人息子の望みを叶えることに、迷いなど存在しないようだった。
通話を終えた洸介は、椅子の背もたれに深く身を預けた。
窓の外に広がる学術院の夜景を見つめながら、口元にはいつしか歪んだ笑みが浮かんでいる。
自分でも自覚できないほど、醜く歪んだ笑みだった。
すべての駒が、思い描いた通りに動き始めている。
あとは、盤上に自分自身の居場所を作るだけでいい。
霜月の冠を持つ魔術祭で――お前が誰に尽くすべきなのかを、教えてやる。
この夜、誰も知らない場所で、一つの歯車が静かに回り始めた。




