第一話 新しい日常
学術院に来てから、一週間が過ぎた。
三日前には、アパートに置いてきたはずの荷物が無事に届いた。
使い古したゲーム機、埃を被った漫画本、着古したパーカー。
四畳半の部屋に押し込んでいたはずのものたちが、この広い部屋の中では、やけに場違いに見える。
ダンボールを開けると漂ってくる、あのアパート特有の湿った匂いが、以前の生活と地続きであることを教えてくれた。
そして見慣れた私物を手に取ると、張っていた肩の力が抜けるような気がした。
この一週間で、自分でも一番の変化だと感じているのは、あいさつをするようになったことだった。
買い物をするのに外へ出ると、必ずと言っていいほどご近所さんとすれ違う。
マンションのエントランスで顔を合わせた老夫婦、通りの向こうから歩いてくる若い夫婦、犬の散歩をしている中年の男。
誰も彼も、目が合えば自然とあいさつをしてくれる。
それも、社交辞令じみた軽いものではなく、どこか確かな温度を持ったあいさつだった。
「おはようございます」
「ええ、おはようございます」
最初のうちは戸惑いながら会釈をするだけだったが、今ではこちらから声をかけることも増えてきた。
向陽サービスの事務所では、挨拶程度の付き合いすらまともに成立していなかったというのに、この学術院の住人たちはどうしてこうも自然に言葉を交わせるのだろう。
心にどこか余裕がある人間が多いのか、それとも同じ立場に置かれた者同士の、言葉にならない仲間意識のようなものが働いているのか。
理由は分からないが、悪い気はしなかった。
すれ違う誰もが、俺と同じように、かつて何処かの日常から連れ出されてきた人間なのかもしれない。
そう思うと、住み始めたばかりの街のはずなのに、どこか不思議な親近感を覚えた。
☆
トークンの使い方も、この一週間で宮司さんに一通り教わった。
学術院での買い物は、部屋のドアと同じ仕組みで完結する。
財布も、現金も、カードやスマホすら必要ない。
店先に据えられた小さな端末に手のひらをかざせば、それだけで会計が終わる。
魔素による個人認証が、そのまま決済手段になっているということらしい。
それでも最初は財布を取り出そうとして、店員さんが笑顔で教えてくれたのは良い思い出だ。
「あんたの魔素と紐づいたタブレットで、残高もスコアも健康状態も、全部一括で管理されてるの」
宮司さんからタブレットと呼ばれる特殊端末を渡された時、俺は思わず目を疑った。
学術院に来た翌日、宮司が持ってきてくれたその端末を手のひらで軽く触れると、画面には見慣れない桁数の数字が表示されていたのだ。
薄型のガラス板一枚に、これほどの個人情報が詰め込まれていることにも、素直に驚かされた。
「初期費用として、五十万トークン。あんたの当面の生活費よ」
「五十万……トークン?」
目玉が飛び出るかと思った。
貨幣の単位はトークンといい、円換算で一トークンは一円。
つまり額面通り、五十万円に相当する大金が、俺の名義でいきなり登録されていたことになる。
十一年間、毎月ぎりぎりの給料で生活していた身にとって、この数字はあまりにも現実離れしていた。
「これ、本当に貰っていいものなんですか」
「保護対象への支度金なのだから、遠慮なく使えばいいわ。家具も家電も無料だけど、服や生活用品は揃え直さないといけな
いから」
軽く笑いながらそう言った宮司さんの言葉を、俺は半分も信じきれずにいた。
画面に表示された桁数を、何度も指で数え直してしまうくらいには。
☆
これほどの環境が整っているというのに、俺の生活はそれほど変わり映えしなかった。
朝は好きな時間に起き、適当に食事を済ませ、あとは一日中ゲームをして過ごす。
四畳半のアパートで繰り返していた日々と、やっていることはほとんど変わらない。
三LDKの広い部屋で、豪華な家具に囲まれながら、結局はコントローラーを握り続けている自分を思うと、少しだけ苦笑してしまう。
近所にはありとあらゆる施設が揃っているというのに、外に出て活用しようという気力は湧いてこなかった。
それでも、変わったこともいくつかあった。
まず食事の内容が明らかに良くなった。
所持金に余裕が出来たことで、近くのスーパーで食材を買って、簡単な調理をするようになった。
碌な料理は作れないけれど、コンビニ弁当とは比べ物にならない栄養が摂れる。
睡眠の質も、以前より確実に良くなっている。
終電を逃して深夜まで働くこともなければ、課長からの理不尽な呼び出しに怯える必要もない。
何かに追い立てられることなく眠れる夜が、こんなにも身体を軽くするものだとは、これまで知らなかった。
鏡を見る回数が増えたのも変化の一つだった。
以前は、寝不足と過労で四十を過ぎているように見えることもあったが、鏡に映る自分の姿は年相応に思える。
心なしか顔色も良くなってきているように見えた。
三十一歳という実年齢に、ようやく顔つきが追いついてきたのかもしれない。
(少しは人間らしい生活になったのかもな)
鏡の中の自分を見つめながら、そんなことを思う。
だが同時に、この穏やかな日々がいつまでも続くとは思えなかった。
何もせず日々を消費しているだけの自分に、心のどこかで小さな苛立ちのようなものも芽生え始めている。
宮司さんから見放されているわけでもないのに、このままではいけない、という漠然とした焦りが、時折胸をよぎった。
☆
そして、明日。
ついに、スサノオへの初登校日を迎える。
テーブルの上に置かれたタブレットの画面には、明日の集合時間と場所が表示されていた。
子供の頃に読んだ物語や、四年前から続けているオンラインRPGの中で憧れる事しかできなかった、あの魔法という力をいよいよ自分自身が学ぶことになる。
剣を持ち、魔法を放ち、見知らぬ世界を旅する主人公たち。
画面の向こうにしか存在しないと思っていたものが、明日からは自分の日常の一部になる。
あの薄く透明な膜が、意思を持つように身体へ絡みついた時の感触を思い出す。
あれが、俺の魔法なのだとしたら――。
胸の奥に、これまで感じたことのない高揚感が広がっていく。
ゲームの中でしか味わえなかった万能感を、今度は自分自身の身体で確かめられるかもしれない。
そう思うだけで、右腕が微かに疼くような気がした。
(俺も、魔法が使えるようになるのか)
タブレットの画面には、「スサノオ入学式 午前九時」と静かに表示され続けている。
窓の外に広がる見慣れない夜景を眺めながら、俺は明日を待ち焦がれていた。




