第二話 スサノオ
いい歳になって楽しみで眠れないなんて、自分でも呆れてしまう。
布団に入ってから何度も寝返りを打っているうちに、気づけば窓の外がうっすらと白み始めている。
目覚まし時計が鳴る前から、意識はすでにはっきりと覚醒していた。
寝不足のはずなのに、身体の芯だけが妙に軽い。
子供の頃、遠足の前日に感じていたあの落ち着かなさに、少しだけ似ている気がした。
三十一にもなって、こんな気持ちを味わう日が来るとは思ってもみなかった。
この一週間で、何度かスサノオへ足を運び、登校にかかる時間は把握している。
朝食を軽く済ませ、久しぶりにスーツの袖に腕を通し、ネクタイを締めた。
鏡の前で寝癖を軽く整え、身なりを確認する。
かつては人前に出る前でも適当に済ませていた身支度だったが、今日ばかりは何となく丁寧にやってしまう。
ネクタイの結び目を二度も締め直したのは、我ながら柄にもないことだと思った。
☆
リニアに乗り込み、スサノオの最寄り駅へ向かう。
車内の窓に映る自分の顔は、緊張のせいか、いつもより幾分か強張って見えた。
滑るような静かな走行を終えて改札を抜けると、少し離れたところで大きく手を振る人影が目に入った。
「六月くん、おはようさん!」
宮司さんだ。
相変わらずの巨躯に黒スーツ、サングラス姿だが、朝の光の下で見るその姿は、路地裏で見た時とはまるで別人のように穏やかに映る。
周囲を行き交う人々が、その巨体に驚いたような視線を向けていくのも、もうすっかり見慣れた光景だった。
「おはようございます」
あいさつを返すと、宮司さんはまじまじとこちらの顔を覗き込んできた。
「あら、なんだか顔つき変わったんじゃない?」
褒められているのか、単なる観察なのか判断がつかないまま、俺は曖昧に頷いた。
それから二人で並んで歩きながら、他愛のない会話に花を咲かせる。
近所のスーパーの話、タブレットの使い方の話、そんな取り留めのないやり取りをしているうちに、緊張していたはずの肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
宮司さんのこういうところが、思いのほかありがたい。
そんなことを思っているうちに、視界の先にスサノオの校舎が見えてきた。
巨大な建造物を覆うように、淡く発光する結界のようなものが張り巡らされている。
近づくにつれ、結界の輪郭が陽炎のように揺らめいて見えた。
開始時刻の十五分前に到着し、受付を済ませる。
手のひらを受付の端末にかざすだけだ。
出席登録が完了したのだろう、俺のタブレットには行き先の地図が表示される。
「じゃああたしはここまでね。頑張ってらっしゃい」
宮司さんは軽く手を振ると、俺とは別の方向へと歩いていった。
一人残された俺は、少しだけ心細さを覚えながら、タブレットに視線を落とす。
道に迷わないよう、案内に従いながら進む事にした。
☆
指定された教室は、Cクラスと表示されていた。
(Cと言えば……スコアと同じか)
住民登録の際に表示された自分のスコアと同じ文字を見て、妙に納得する。
教室のプレートにも同じくCの文字が刻まれていた。
この振り分けもまた、あの検査ブースで一瞬にして測られた数値の延長線上にあるのだろう。
「失礼します」
一瞬だけ軽く深呼吸をして教室に足を踏み入れると、数人の生徒がこちらを振り向き、ぱらぱらと「おはようございます」と返してくれた。
街歩きで感じたのと同じ、あの温かみのあるあいさつだった。
誰かとすれ違うたびに身構えていた向陽サービスでの日々が、遠い昔のことのように感じられる。
俺は少しだけ肩の力を抜きながら、指定された席へ向かう。
腰を下ろして待っていると、周囲の席が次々と埋まっていく。
見渡す限り、幼い顔立ちの十歳前後の子供から、成人したばかりに見える二十歳くらいの若者まで、年齢の幅は驚くほど広い。
(小学生みたいな子供もいる……。同じ授業を受けるのか?)
人数はざっと二十人ほどだろうか。
同じ教室に、これほど年齢の異なる人間が集められているという事実だけで、スサノオが一般的な学校とはまるで違う原理で動いていることが窺えた。
教室の中には、緊張と好奇心が入り混じったような、独特のざわめきが漂っていた。
九時ちょうど、教室の壁に据えられたモニターに、映像が映し出される。
最初に現れたのは、六十歳前後と見える恰幅の良い老人だった。
白髪を整えたその男は、いかにも上に立つ人間らしい、威圧感のある語り口で話し始めた。
『学術院理事会理事長を務めております、如月哲山です』
肩書と名前を聞いても、正直なところ実感は湧かない。
長々と続く挨拶と、学術院の理念だとかいう堅苦しい話に、俺はだんだんと集中力を削がれていくのを感じた。
周りの生徒たちも、姿勢こそ正しているものの、目には隠しきれない眠気が浮かんでいる。
隣の席の少年が、こっそりと欠伸を噛み殺しているのが視界の端に映った。
理事長の話がようやく終わると、次に映し出されたのは、やや若く見える眼鏡の男だった。
『スサノオ校長の文月です』
こちらは理事長よりはいくらか簡潔で、実務的な話が多かった。
授業の進め方、単位の取り方、施設の利用方法。
話の中身自体は、理事長のものよりも幾分か頭に入ってきやすい。
教室の空気にも、心なしか集中力が戻ってきているようだった。
二人の名前を並べて眺めているうちに、俺はふと気付く。
如月、文月――どちらも和風月名を家名に持っている。
この学術院の上層部には、そうした古めかしい家名を持つ人間が多いらしい。
(俺の名字は六月だけどな)
もし自分の姓が水無月だったら、こんな肩書を持って壇上に立つ未来もあったのだろうか。
そんな益体もないことを考えながら、俺はモニターの映像を眺め続けていた。
同じ月の名を冠していても、自分とあの壇上の人間たちとの間には、越えられそうもない隔たりがある気がした。
やがて、映像は新任教員の紹介へと移っていく。
『Cクラス担当であった下宮教諭は、このたび不祥事により堕天処分となりました。後任として、霜月教諭が本日付けで着任いたします』
淡々とした事務的な文言に、教室内の空気が一瞬だけ張り詰めた。
不祥事、という単語の重さが、若い生徒たちの間にもそれなりに伝わったのだろう。
堕天という言葉が、教壇に立つ人間にすら容赦なく適用されるのだという事実に、俺は密かに背筋を正した。
だが、その緊張はすぐに、別の意味でのざわめきへと塗り替えられていく。
「え、綺麗……」
「めっちゃ美人じゃん」
周囲の生徒たちが、口々にそんな言葉を漏らしている。
何事かとモニターに視線を戻した瞬間、俺は思わず息を止めた。
夜空のような黒髪、見覚えのある横顔、涼しげな目元。
まさか、そんなはずがない。
名前のテロップとともに、担当クラスの表示が現れる。
Cクラス、担当教員――霜月凛。
(え……)
頭の中で理解が追いつかないまま、俺はただモニターの中の彼女を見つめていた。
内閣府特区管理局の副局長だったはずの人が、どうしてスサノオの教壇に立とうとしているのか。
何度考えても、答えらしい答えは浮かんでこない。
(霜月さんが……どうして担当になってるんだ?)




