十五話 一寸先は
学術院の物価が、百倍にまで跳ね上がった頃。
向陽サービスのオフィスに、二人のスーツ姿が入っていった。
「わたしはこういう者です。御社の従業員の方から情報を頂いたのですが……」
先頭の男が受付で名刺を差し出す。
名刺には、労働基準監督署と書かれていた。
「しょ、少々、お待ち下さい。責任者をお呼びしま――」
「それには及びません。元課長の山内さんと言われましたか。その方をお願い致します」
「しょ、承知しました」
「それと――」
「何でしょうかっ」
「話ができる部屋をお貸し願えますか?」
☆
応接室には、元課長――今は清掃担当の山内と、労基の職員がソファに腰を下ろしていた。
「本日はどのようなご用向きで?」
山内は恐る恐る尋ねる。
これ以上、会社に負担をかけると、どうなるか分かったものではない。
以前の回答ミスで課長を降ろされ、出向清掃員になったのは記憶に新しい。
何とか出向から会社勤務に戻れたばかりだ。
また出向させられるのだけは、勘弁してほしいと考えていた。
「貴方からタレコミがあった三六協定違反の件です」
「は? 俺……いや、わたしはそんなこと――」
山内がしたのはハラスメントの相談だ。
労働時間のことなど知らない。
「昨年の十一月頃まで、社員にサービス残業を強要。その時間は月百時間を越えていたと聞きましたが?」
(それって俺が六月にやったヤツじゃねえか。何で俺がタレ込んだことになってるんだ!?)
「き、きっと何かの間違いでは……」
山内はしどろもどろになっていた。
「そうですか。つまり御社は、社員の労働管理がおろそかである、ということですね」
「い、いえ、決してそのような――」
「これは本社の指導不足が原因でしょう」
「そのようですね。一度、皐月コンツェルン本社に業務改善命令を発行しましょう」
労基の二人が勝手に納得している。
このままでは話がまとまってしまいそうだった。
「ま、ま、ま、待って下さいよ。本社は関係――」
「関係ありますよね。全ての責任を負うのが本社という場所です」
「元課長の山内さん。本日はご協力ありがとうございました」
労基の二人は立ち上がって、部屋から出て行った。
「………………」
山内はソファに全身を預けるほど脱力した。
(六月はほんっとうに疫病神だあああああぁぁっ!)
心の中の叫び声は、どこにも届かなかった。
☆
『六時のニュースです』
軽やかなテンポの曲に乗せて、ニュースの時間が始まった。
『本日、最初のニュースは日本で総資産額首位の皐月コンツェルンの不祥事です』
ビルに据えられた大型モニターに、「皐月コンツェルンに強制捜索!」と目立った文字が表示された。
忙しく歩く通行人が立ち止まることはない。
『本日、十六時。皐月コンツェルンに強制労働の疑いがあるとして、労働基準監督署が立ち入り捜査に踏み切りました。子会社の調査を進めた結果、親会社である皐月コンツェルンからの業務指示や労務管理に関する資料を確認したもようです。さらに複数の関連企業でも同様の問題が確認されたことから、本社への立ち入り捜査に踏み切りました』
一瞬、向陽サービスが画面に映り込む。
その後、皐月の本社ビルが映し出されて、捜索員が段ボールに詰められた資料などを運び出す映像が流れた。
『捜査当局は余罪があるとみており、捜査は難航すると思われます』
次に、金融担当大臣である八本一のインタビューが続く。
『この件は、マネーロンダリングの可能性があると専門家からの指摘を受け、一時的に皐月コンツェルンの資産を凍結しました。あくまで一時的な処置で――』
画面がスタジオに戻る。アナウンサーが真面目な表情で続けた。
『労働基準監督署から発生した事件で、マネーロンダリングの可能性が指摘されています。マネーロンダリング事件に詳しい専門家の先生をお呼びしています。先生、これは?』
『そうですね。おそらくはマネーロンダリングが本命なんでしょう。まずは捜査の手を入れるために、労働基準監督署を使ったのではないでしょうか』
『そうなると今後の動向に注意が必要ですね』
『そうですね。日本は法治国家ですので、何もしていなければ安心して良いと思いますよ』
『先生、ありがとうございました。それでは次のニュースです』
ニュースから天気予報に画面が遷移する。
画面が一転して、日本地図と可愛らしい女性キャスターが映し出された。
道を急ぐ人たちが、画面を見て立ち止まった。
「最近出てきたあの子、可愛いよな」
「明日は雨かよ〜」
明日の天気は雨。
週間予報を見ても、しばらく晴れる日はなさそうだった。
☆
二区というのは、学術院のカースト内でトップ層に位置している。
その最裕福層に、異変が生じていた。
これまで一万トークンで買えていた品物が、百倍の百万トークンになったことが原因だった。
それでも千トークンほどの品物は、十万トークンで買うことができる。
救いだったのは、国が費用を出して皐月家が用意した家具や家電があったので、普段の出費がほとんどなかったことだろう。
それでも、これまでの貯蓄を切り崩しながらの生活が始まっていた。
そんな中で住民による買い溜めが始まっていた。
より資金を持つ者が、少なくなっている商品を過剰に買っていく。
目の前から品物が消えていくのは、住民にとってはストレスでしかなかった。
ここ数日で価格が十倍になり、すぐに百倍になったのを生活の中で思い知らされていた。
☆
二区にあるホテルの最上階のレストラン。
一年先まで埋まっていた予約が、全て解消されていた。
それでも、最高の晩餐を楽しもうとする高級志向の人たちは一定数いる。
今日も上質な空間を求めて、一組の客が席についていた。
待ちに待った前菜がテーブルに並んで、客は不満を隠さなかった。
「これはどういう事ですか」
それもそうだろう。
出てきたサラダには、レタスが一切れ乗っているだけだった。
ウエイターが対応しきれなくなって、シェフが出てくる。
「お客様。これが限界なのです。もしレタスを二枚、盛り合わせると価格が十倍上がります」
前菜でこの有様である。
この後から出てくる料理には、もはや期待できない。
「キャンセルはできますか?」
「はい。それではキャンセル料として百万トークンをお支払い下さい」
「なっ!?」
「申し訳ございませんが、レタス一枚の費用でございます。材料費としてお支払い下さい」
客はタブレットを取り出すと、渋々支払いを済ませた。
そして立ち上がって、何も言わずにレストランから出ていく。
「……この店も続けられないな」
シェフの呟きは、窓から見える学術院の夜景に添えられた。
☆
長月文を筆頭に、長月家と師走家は、天の壁を越えて四区に来ていた。
以前の四区の雰囲気とは全く変わっている。
人々は挨拶しあい、活気に満ちあふれていた。
見栄えが悪かったゴミなども、放置されていない。
「ここはどこって感じなんだけど」
「……別世界みたいじゃのう」
「チーッス。長月さんッスね。睦月の旦那から聞いてるッス」
一同は顔を見合わせた。
この人物とは初対面のはずだ。
「ぬしはだれじゃ?」
文は声を低くして聞いた。
「俺は山田ッス。メビウスのメンバーなんで宜しくッス」
「どうして儂らを知っているんじゃ?」
「睦月の旦那から写真をもらったッス。やっぱ時代はアナログッスよね」
「どうやって儂らの写真を……」
「俺も詳しくは知らないッス。立ち話もアレなんで住む場所に案内するッス」
山田は踵を返して歩き始める。
長月家五人と師走家五人の十人は、その後ろについて行く。
度々すれ違う住人は、以前の三区のような雰囲気を持っていた。
全員がここが本当に四区なのかと疑うほどに。
歩くこと一時間。
学術院の南端で、山田は足を止めた。
「みんなの新居はここッス」
そこは、かつて睦月本邸があった忌むべき場所。
荒れ果てたままの広場。
中央にあった小さな礼拝所。
鉄線が巻かれたバリケード。
それらの記憶は、もう過去のものになっていた。
旧月家の本邸に勝るとも劣らない平屋の一戸建てが、涼しい顔で建っていた。
どうやら数日前に完成したばかりらしい。
山田は門扉でチャイムを押した。
「山田ッス。皆さんを連れて来たッス」
しばらくすると、見慣れた男が門を開けた。
「お〜。待ってたよ」
普段と変わらない雰囲気で出てきたのは睦月家当主
――睦月楓だった。




