七話 俺の聖女さま
【楓視点】
四区で的場さんと別れて、俺は二区のマンションまで戻ってきた。
玄関を開けて部屋に入ると、凛がソファに掛けている。
俺の顔を見た瞬間、その表情がぱっと明るくなった。
「楓さん、おかえりなさい。今日も無事で良かった……」
「凛は心配性だよね。四区から出る時にメッセージを送ったのに」
俺はそう言いながら、自然と凛を抱きしめていた。
人の温かさを直に感じた瞬間、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
今日聞かされた話の重さが、まだ身体のどこかに残っている。
泣きそうになるのを必死に堪えていた。
「…………何かあったんですね」
凛は俺を両手で包み込むようにして、身体をこちらへ引き寄せた。
「……そうだね。でも、もう大丈夫」
「楓さん。わたしを見くびらないで下さい。全然、大丈夫ではないでしょう」
腕に力が籠るのが分かる。
凛は本当に、俺のことを心配してくれている。
「……ありがとう。もう少し、このままで」
頭に顎が触れる感触があった。
どうやら頷いてくれたらしい。
俺はしばらく目を瞑って、その幸せな時間を噛み締めた。
☆
どれくらい経っただろうか。
気持ちの整理がついていた。
「凛、ありがとう。落ち着いたよ」
「ずっと、このままでも良いですよ」
「俺もそうしたい」
俺は顔を上げて、凛の頭をそっと撫でた。
「でも、これだけは今夜、終わらせないと」
唇を交わしてから立ち上がる。
「絶対に無茶はしないで下さいね」
「当然。俺は勝確のゲームしかしないから」
机にあったタブレットを立ち上げて秘匿回線を開く。
そして、お義祖父さんの名前をタップした。
一度のコールで通話がつながった。
『どうした?』
相変わらず圧が強い。
「お願いがあります。会っていただけませんか?」
『俺も暇じゃないが……。明日の二十時、本邸に来い。貴様に三十分だけくれてやる』
「ありがとうございます。必ず伺います」
『じゃあな、クソガキ』
一方的に通話が切られた。
相変わらずの塩対応だが、こちらの用件を察してすぐに時間を作ってくれる。
そのあたり、根はやはり律儀な人なのだろう。
「お祖父様ですか?」
「うん、明日の二十時に会いに行ってくる。申し訳ないけど凛はここで待っていて」
「わたしも行きます。最近、楓さんと一緒にお出かけしていません。それに……あなたを一人で行かせたくありません」
「この話を聞くと多分、気分が悪くなる。今の凛にそんな負担をかけたくないんだ」
「わたしも行きます。絶対に」
凛の声には、いつもの穏やかさの奥に、揺るがない意志を感じた。
「……それじゃあ、約束してくれる? 体調が優れない時は席を外して欲しい」
「はい。わたしも無理はしません」
そう言って自分のお腹にそっと触れる。
その仕草が、たまらなく愛おしかった。
「明日、晩ごはんを食べてから本邸に向かおう」
「はい!」
「いつもの訓練はどうする? 少し時間が遅くなっているけど」
「それは妥協できません。いつも通りお願いします」
思わず口角が上がった。
本当に凛は変わらない。
「了解。今日も容赦はしないよ」
「わたしも負けません」
俺達は立ち上がって、魔法の練習部屋へと向かった。
(凛との練習はゲームみたいだ。それも強敵と対戦しているみたいで楽しいんだよな)
☆
翌日、スサノオの講義を終えて家に着くと、既に夕食の準備が終わっていた。
「さすが、凛。準備万端で助かるよ」
凛が給仕さんと段取りをつけてくれたんだろう。
「楓さんがメッセージをくれたからですよ」
早速、ダイニングテーブルに二人で掛ける。
今日のメニューは炊き込みご飯、鯛の塩焼き、だし巻き、おすましだった。
脂がのった絶妙な塩加減の鯛に箸を入れる。
フワリと湯気が立ち上がった白い身を、ご飯と一緒にいただいた。
だし巻きを割って口に入れると、芳醇な出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
「やっぱり霜月家の給仕さんは腕が良いよね」
「……しです」
「え?」
「今日はわたしが作りました!」
「ええええぇぇぇっ! マジでっ!? 凛って料理できたっけ?」
凛はこちらを向いて頬を膨らませた。
「そんな酷いことを言う楓さんにはもう作ってあげません!」
その後、俺は謝罪し続けた。
途中で凛が笑い出したので、揶揄われていたのだろう。
このお茶目さんめ、と俺もつられて笑っていた。
☆
食事が終わって、霜月本邸に向かう。
宮司さんに連絡をすると、今から護衛してくれるということになった。
チャイムが鳴って玄関に向かうと宮司さんが立っていた。
「それじゃあ、行きましょうか」
廊下から見える学術院の夜景が、今夜はどこか蜃気楼のように霞んで見えた。
宝石を散りばめたような光の下で、家畜と呼ばれた人々が今日も普通に暮らしている。
その事実を知ってしまった今、この美しい景色は、もう昨日と同じようには見えなかった。




