三話 侵食
網走秋が目を覚ましたのは、薄暗い部屋の中だった。
視界に映るのは剥げかけた天井の染みと、裸電球が一つぶら下がっているだけの殺風景な光景だ。
身体を起こそうとして、初めて異常に気付く。
両手と両足の自由が利かない。
手首と足首に硬質な感触があった。
皮膚に食い込むほどきつく締め付けられているわけではないが、力を込めてもびくともしない。
その頑丈な造りから、素人が作った物ではないことはすぐに分かった。
(頑丈に作られている。魔法で外せるだろうか?)
秋は右手に意識を集中させた。
手の平に風を纏わせようとする。
これまで数えられないほど繰り返してきた魔法の起動。
空気の流れを掌握し自身の周囲に薄い流れを作る。
ただそれだけの簡単な魔力操作が今はできなかった。
魔法が立ち上がりすらしない。
まるで魔力を根本から抑え込まれているような感覚。
(ありえない。この拘束具に、そんな効果まであるのか? まさか管理局の手が入っているのか……?)
混乱の中で記憶を辿る。
睦月楓――昨夜、ゴッドから調査指示が出たターゲットの名前。
尾行は今朝から続けていた。
ショッピングモール、天の壁、四区で厳つい男との待ち合わせ。
二人の後を尾行ていると角を曲がった。
追いかけて角にさしかかった瞬間、全く動けなくなり記憶が途切れている。
(まさかバレていた? いや、そんなことはないはずだ。わたしの尾行は完璧だった。それなのに何が起こったんだ)
秋はまだ頭の中を整理しきれずにいた。
網走秋は、皐月家が誇る諜報組織『梟』に属する精鋭だ。
存在を消す訓練は長い年月を積み重ねてきたもので、その技術には絶対の自信を持っていた。
呼吸の音一つ、足音一つに至るまで、風の流れに溶け込ませる。
標的に気付かれるということは、これまでの任務で一度もなかった。
その技術が破られた。
(わたしは一体、何を相手にしていたんだ)
疑問ばかりが頭の中を巡っていく。
絶対に分かるはずのない尾行が、いとも簡単にバレていた。
絶対に捕まるはずのない自分が、こうして手足を縛られて転がされている。
秋の矜持は大きく傷ついていた。
「目が覚めたようだね。網走」
隣の部屋から声がした。
その声を聞いた瞬間、秋の背筋に冷たいものが走った。
聞き覚えのある声。
皐月家に長く仕えてきた秋にとって、幾度となく耳にしてきたなじみ深い声だった。
「ど、どうしてこんな場所に――」
驚きのあまり声が震える。
この一ヶ月、梟の総力を挙げて捜索を続けてきた人物だった。
四区に間違いなくいるという確信はあったが、居場所の特定には至らなかった。
それが、こんな寂れたマンションにいるとは思いもよらない。
「洸介様!?」
隣の部屋から足音が近づいてきた。
そして姿を現したのは、紛れもなく皐月洸介だった。
だが秋の記憶にある洸介とは随分と違っていた。
以前の洸介――旧月家の御曹司として鼻にかけていたあの姿は残っていない。
頬はこけ目元には隈が浮かんでいる。
それでいて、その顔には妙な穏やかさを感じさせた。
「睦月さんが僕を保護してくれたんだ。堕天した時は、本当に死ぬかと思ったよ」
洸介は淡々と語り始めた。
堕天処分を受け、四区の古びたアパートに一人放り込まれたこと。
そこで的場に目を付けられ、追い詰められたこと。
逃げ惑っていたところを楓に助けられ、このマンションに匿われることになったこと。
今はメビウスが自分を守ってくれているのだと、洸介は語った。
その語り口の中で、睦月楓の名前を口にするたびに、洸介の表情に恍惚とした色が浮かんだ。
(完全に依存している……。どうやったら、ここまで堕ちるんだ?)
秋は目の前の状況を、瞬時に危険だと判断した。
これは保護という言葉で説明できるものではない。
心が壊れかけた人間が、睦月楓という男に全てを委ねてしまっている状態だ。
「ご存知だと思いますが、洸介様には昇天許可が――」
「やめてくれっ! 網走は僕を殺したいのかっ!!」
洸介が甲高い声で突然叫んだ。
その声には激しい拒絶を含んでいる。
表情が一瞬で歪み、まるで別人のように怯えた目で秋を見た。
そして洸介はよろめきながら隣の部屋へと戻っていった。
秋は動けない身体を必死に捻り、芋虫のように身をよじりながら部屋の境目まで移動する。
拘束されたまま床を這うのは屈辱的だったが、今はそんなことに構っていられない。
境目まで辿り着いて視界に入った光景に、秋は目を疑った。
床には砕けたタブレットの残骸が放置されていた。
おそらく、外部からの連絡を全て遮断するために自ら破壊したのだろう。
窓際に座り込んだ洸介は、そこから見える四区の光景をただ楽しげに眺めていた。
そして独り言のように何かを呟きながら、小さく鼻歌を口ずさんでいる。
「ここにいれば睦月さんが僕を守ってくれる。ずっと安心して暮らしていけるんだ」
どこかで聞いた覚えのある旋律が、静かに部屋の中を漂っていた。
秋の顔から血の気が引いた。
(洸介様。今の状況は――保護ではありません。監禁です)
このマンションはメビウスによって厳重に囲われている。
外部から接触を試みることは不可能に近い。
しかも、これまで皐月家の工作の一端を担ってきたはずのメビウスが、今や睦月楓の側についている。
この情報を一刻も早く報告しなければならない。
今の状況を把握しなければ、取り返しのつかない事態になる。
(全て繋がっています。気をつけて下さい、ゴッド)
秋は心の中で叫び続けた。
だがその声は、拘束された身体の外へは決して届かない。
薄暗い部屋の中で、洸介の鼻歌だけが、いつまでも静かに続いていた。




