二話 追跡者
【楓視点】
凛と夕食を済ませた後、俺は天の壁を抜けて四区に入っていた。
夜の四区は、いつもながら人の気配を感じない。
ぼんやりとした街灯の下に、剥がれかけた壁の落書きや、放置された自転車の影が浮かび上がる。
いつもの場所で、的場さんが壁に背を傾けて待っていた。
「相変わらず、時間にシビアじゃねえか」
「元社畜なもんで」
「なんだあ、それは?」
「会社に貢献する家畜みたいな人間の事ですよ」
的場さんは眉間に深いシワを刻んだ。
「会社っていうのはヤベえんだな」
「はい。めちゃくちゃヤベえです」
俺はニヤリと笑うと歩き出した。
「チッ! 忙しねえな」
的場さんは渋々といった調子で横に並んで歩く。
この一ヶ月ほどで、こういうやり取りにも馴染んできた。
しばらく進んだところで、的場さんが何かに気付いたように足を止めた。
「テメエ、まさか迷ってるのかあ?」
いつもと違う道に逸れたのを迷子だと解釈したらしい。
その顔には四区を知り尽くした男の優越感が見え隠れしている。
「気づいてますか? 尾行られてます」
俺は囁くような声で伝えた。
「は? マジか」
「今日の昼からずっとですね」
思わずため息が出る。
(……一体、俺が何をしたっていうんだ)
ショッピングモールでワンピースを選んでいただけの、ただの一般人だ。
睦月家の当主であり月隠の魔術師であるという事実は、確かに特殊なのかも知れないが。
「テメエ、どうやって気づいたんだあ? 俺には全く分からねえ」
「最近、警戒を兼ねて細かい魔法を周囲に飛ばしてるんです。ドットくらいの大きさで。今日は同じくらいの距離で、ずっと反応があるんですよ」
禁書庫の一件以来、こういう地味な魔法の使い方を色々と試している。
凛と話し合って作っている新開発の魔法がいくつもある。
その中で視認できないほど小さな無属性の粒を、目立たない密度で周囲に散らしておくというものだ。
粒に何かが触れれば、微かな揺らぎとして俺の中に返ってくる。
魔力の消費もほとんどないので、常時展開しておいても負担にならない。
「俺には意味がわかんねえよ。で、どうするんだ?」
「面倒なので捕まえようと思います。その角を曲がったところで無属性魔法を展開、姿を隠します。多分、追いかけてくるでしょうから、そこで捕らえます」
「俺にはテメエが言ってる事が理解できねえ」
「お膳立ては俺がやります。的場さんは捕らえる事に注力して下さい」
「わあったよ。力仕事は任せろ」
歩調を変えずに前に進む。
少し進んだ場所で俺達は角を曲がった。
その瞬間、俺は指先から薄いフィルム状の無属性魔法を展開した。
周囲の空気を薄く歪めて視覚的に屈折させる。
透明化と言うほど大それたものではなく、輪郭を曖昧にぼかす程度の効果だ。
それでも夜の闇の中では十分だろう。
俺と的場さんは角の陰に身を潜めて、息を潜めた。
数分後、角の向こうから一人の男が姿を現す。
みすぼらしい身なりで、四区でよく見かける類の風貌をしている。
だが、その男の動作は四区の住人にしては明らかにおかしかった。
(……存在感がほとんどない)
地味というだけでは説明がつかない。
足音も、衣擦れの音も、呼吸すらも、意識しなければ見過ごしてしまうほど薄い。
ただ足元でホコリが小さく舞っている。
(なるほど風魔法を薄く纏っているのか)
自分の周囲の空気の流れを操作して、音や気配を逃がしているのだろう。
常時それを展開しながら完璧な尾行をこなす。
(相当な手練れに違いない。これはアタリだな)
素人には真似できないであろう動きだった。
俺は指先に無属性魔法を細く薄く展開して、左の手のひらへ押し当てた。
じわりと薄く血がにじむ。
痛みはほとんどない。
傷というよりも、皮膚の表面を軽く撫でた程度のものだ。
ちなみに切る練習を何度もしているので、手の平の皮が少しゴツくなってきている。
そして変化はすぐに現れた。
「……なんだ、それ」
的場さんが小声で呟いた。
俺の左手を凝視している。
油膜のような虹色をした薄い膜が、手のひらの上でゆらゆらと揺れていた。
三十年前、母が命を懸けて俺に遺した秘術――『月隠』だ。
色々と試した結果、月隠は俺の痛覚に反応して発現する事が分かった。
それ以来、いつでも使えるように無属性魔法の薄い刃で、手の平を傷つける練習をしてきた。
俺は展開していた無属性魔法のフィルムを解除すると、そのまま月隠を放つ。
男は俺達の気配を察したのか、後ずさりながら距離を取ろうとした。
だが遅すぎた。
既に月隠は、球体状の透明な檻となって男を包み込んでいた。
魔術祭で洸介君に使った絶対防御の監獄。
俺が解除するまで、内側の人間は絶対に逃げることができない。
世界最高峰の牢獄が完成していた。
しばらくすると、男の動きが鈍くなっていく。
中の空気が薄くなっているのだろう。
魔術師は魔力回路があるので、密閉された空間にはめっぽう弱い。
この辺りのロジックは母の論文、魔力回路の原理によって説明されていた。
酸素がなければ魔力を生み出せない。
心臓に魔力回路があるのも何か理由があっての事なのだろう。
それは魔術祭の洸介君でも実証済だ。
五分くらいすると、男は魔素を生成できなくなったのだろう。
魔力回路が機能しなくなり、膝から崩れ落ちて動かなくなった。
隣で的場さんが、息を呑む音が聞こえた。
「……テメエ、それを使ってた事があんのかよ」
「戦闘用じゃないですよ、これ。ただの拘束です」
「今のが戦闘じゃなくて何だっていうんだ。拘束の域を超えてんだろうがよお」
的場さんはいつもの軽口とは違った温度で呟いた。
☆
月隠を解除した後、動かなくなった男を的場さんに担いでもらった。
既に呼吸は安定している。
行き先は洸介君が住んでいる古いマンションだ。
現在、そのマンションをまるごと俺が借りている。
二区や三区であれば、物件の管理は全て内閣府特区管理局の管轄になる。
誰がどこに住んでいるのかを細かく把握している。
だが四区は違っていた。
管理は個人に委ねられていて、誰が何処に住もうが関与する気配がない。
人の出入りすらろくに記録されていないのだから、四区がスラムと呼ばれる無法地帯になっているのも当然の話だった。
学術院に来てから五ヶ月が経ち、俺は思っていたよりもトークンを持つようになっていた。
毎月の支給に加えて、魔術祭と舞踏会の優勝賞金が積み重なっている。
四区は住民の資産は総じて少なく物価も安い。
その気になればマンションを丸ごと借りるのも、そう難しくはなかった。
二区や三区の金持ちは四区に興味を持たない。
俺が動きやすかったのは、その無関心のおかげでもあった。
このマンションは、今ではメビウスの連中の住まいにもなっている。
到着すると、いつものように数人が入り口にたむろしていた。
「睦月さん、ボス。チーッス」
「皆さん、元気にしてますか」
「おかげさまっス。やっぱ屋根があるといいッスね」
「それは良かった。この人、洸介君の部屋で預かってくれる? 手練れなんで身体の自由は奪っていいよ」
「了解っス。管理局の拘束具を使うっス」
「それで宜しく。それじゃあ的場さん、いつもの所に行こうか」
「了解。おい、テメエら。そいつを絶対に逃がすんじゃねえぞ」
「はいっスうううう」
メビウスの数人が男の手足に拘束具を装着して、慣れた手つきで部屋へ運んでいく。
ここ最近ですっかり動きが様になってきていた。
俺達はそれを確認してから、来た道を戻っていった。
夜の四区の空気は冷たかったが、今晩の仕事は始まってもいない。
まだ残る冬の寒さが明けるのは、もう少し先のようだ。
おはようございます。
お読み下さりありがとうございます!
まずはお礼を。
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明日も朝八時二十分に投稿します。
引き続き月隠の魔術師をお願い致します!




