一話 睦月家当主、女性服を買う
【楓視点】
三月に入ったという事をショッピングモールの入り口で実感させられた。
春を待ちかねたようにフラワーアレンジメントが、エントランスホールを淡いピンクと白で飾り立てていた。
正面の大きなガラス窓越しに差し込む陽光は、少し暖かみを帯びている。
俺は明るい光が照らされている通路を進む。
そして案内マップの前で立ち止まった。
(レディースファッションは……四階だな)
地図を目で辿りながらエレベーターの位置を確かめる。
こういう施設の地図は肝心の場所だけが妙に分かりにくい。
今日一人でここに来た理由は、至ってシンプルだった。
凛の体調が優れない日が増えていたから。
といっても深刻な話ではなく、妊娠に伴う身体の変化が続いているという事らしい。
本人は「大丈夫です」と気丈に振る舞っているが、食欲が落ちていたり、ちょっとした動作の後に顔色が変わる場面を何度か見てきた。
俺が気にするほど「楓さんは大げさです」と返ってくる。
だから今日は黙って一人で来た。
身体を締め付けない服を用意しておいたほうがいいと考えたからだ。
問題は、俺がこれまでの人生で自分の服すら碌に選んだことがないという事だろうか。
(まあ、何とかなるだろう)
最近、何とかなる事が多いような気がする。
俺は楽観的観測をひとまず信じることにした。
☆
四階のレディースフロアは、エレベーターの扉が開いた瞬間から別世界だった。
視界に飛び込んできたのは、色と形と素材の玉手箱だった。
棚という棚に服が並び、陳列台には何十着もの衣類が密度高く詰め込まれている。
マネキンは三方向から俺を出迎え、天井の照明は商品を美しく見せていた。
流れる音楽は柔らかく、店内の香りは甘い。
全体の空気が俺にとって異世界だった。
(……マタニティワンピース、か)
妊娠中でも着やすく、身体のラインを締め付けない。
そういう服を買おうと想定していた。
だが、いざフロアを前にしてみると、ワンピースというカテゴリーだけで何種類も売られている。
一件目のショップに入ると、フレアワンピースとマキシワンピースとシフォンワンピースとニットワンピースが各種並んでいた。
(……種類が多すぎる。一体、何が違うんだ?)
試しに一枚手に取ってみると、サイズにはSとかMとかFとか書かれていた。
凛の体型は把握しているつもりだが、どれに該当するのか全く分からない。
俺は棚の前でしばらく固まっていた。
結局、一件目の店は何も買わずに退出した。
二件目もめぼしい服を見つけられなかった。
☆
三件目のショップに入ったあたりから、背中に妙な視線を感じ始めた。
周りを見渡さなくても分かる。
三十一歳の男が一人で婦人服売り場をうろついている。
その絵面の不自然さは、俺自身が一番よく理解していた。
事案の匂いがしないでもない。
それでも今日しかない。
スサノオでの講義が詰まっていて、まとまった時間が取れる日というのは限られていた。
それに加えて四区での作業も追加になっている。
そう考えると、視線の一つや二つを気にしている場合ではなかった。
俺は真っ直ぐ前を向いたまま、ハンガーラックを慎重に物色し続けた。
淡い藤色のワンピースを見つけて手に取る。
凛のあの黒い髪と白い肌には、こういう柔らかい色の方が似合うかも知れない。
形は身頃がゆったりとしていて、スカート部分に向かって緩やかに広がっている。
タグを確認するとMサイズだった。
(これは良いかもしれない)
一つ決まると敷居が低くなった気がした。
四件目のショップでは白を一着、紺を一着選んだ。
凛はいつも黒のスーツ姿なので、紺は違和感ないはずだ。
白も明るくていい感じに思える。
五件目のショップに入った時だった。
「ザコザコおじさん、こんな所で何してんの?」
素っ頓狂な声が背後からかかった。
この呼び方をする人間は、世界で一人しか知らない。
「よう、詩織」
振り返ると、ツインテールを揺らした詩織が、同年代らしき女性と並んでこちらを見ていた。
友人だろうか。
さほど驚いた様子もなく、半笑いでこちらを眺めている。
「ていうか、マジで何してるの。一人で婦人服コーナーって」
「凛の服を探しに来たんだ。どれが良いのかよく分からなくて」
「奥さん? どうしたのよ?」
「体調が良くなくてさ。それで俺だけ来たんだ」
「ふーん」
詩織は首を傾けながら、俺が手に持っていた袋の中を覗こうとした。
「何でワンピースとか探してるの? どっちかというとスーツとかの方が似合いそうじゃん」
「妊娠しているからさ。楽な服があった方が良いと思って」
言葉が切れた途端、詩織の膝からストンと力が抜けた。
音もなく、まるで糸が切れた操り人形のように。
詩織はその場にゆっくりと崩れ落ちた。
床に膝をついたまま、俯いて動かない。
「おい、どうした詩織」
「…………」
「詩織?」
「…………なんでもないわよ! クソザコおじさんなんて! クソザコおじさんなんて大っ嫌い!!」
幽鬼のように立ち上がったかと思うと、次の瞬間には既に走り出していた。
ツインテールが勢いよくなびいて、詩織の背中は人混みの向こうにあっという間に消えていった。
「ちょ、詩織!」
名前を呼んでも当然振り返らない。
声が届いているのかも怪しかった。
詩織の友人が困ったような苦笑いを浮かべながら、俺に向かってぺこりと頭を下げた。
そのまま詩織の後を追うようにショップを出ていく。
静まり返った店内で、周囲の客からの小声と視線が集まっていた。
俺は会釈を返してから、なるべく自然な足取りでその店を後にする。
通路に出て、肩から力が一気に抜けた。
(……何だったんだ)
突然、詩織が走り去った理由は考えない方が良い気がした。
☆
八着の服が入った紙袋を両手に抱えて、俺はフロアの端にある休憩用の椅子に腰を下ろした。
ふうと息をついて背中を預けると、肩がじんわりほぐれる気がした。
重い荷物ではないのに、いつもとは違った疲れが身体に残っている。
フロアを行き交う人々を眺めながら、しばらくそのままでいた。
最近は、スサノオでの講義を終えてから、天の壁を抜けて四区に向かう日が増えている。
的場と仲良くなったとは言えないが、メビウスと俺の関係はかなり縮まっていた。
ふと時計を見ると、モールに来てから五時間近くが経過していた。
(ヤバい。かなり経ってる)
慌ててタブレットを取り出し、凛へメッセージを送った。
『服を選んでいたら遅くなった。今から帰るから心配しないで』
送信してから、画面を見つめていると既読がついた。
それから間もなく返信が来た。
『楓さん、ありがとうございます。気をつけて帰って来て下さい』
俺の胸の奥が静かに温かくなっていくのが分かった。
誰かが自分の帰りを待ってくれている。
それだけで身体の疲れが一気に軽くなった。
俺は立ち上がり、紙袋を両手に持ち直した。
出口へ向かいながら、どれを凛が気に入るか楽しみになっていた。
藤色のワンピースはきっと驚かれるだろう。
凛はああいう色の服を自分では選ばない。
でもきっと似合う。
そう思うと、早く家に帰りたくなった。
エスカレーターを降りる。
一階のホールを抜け、外へ続く自動ドアが開く。
三月の空気が、ひんやりと頬に触れた。
俺はそのまま歩き出しながら、少し前から感じていた気配を改めて確認した。
距離を保ちながら、俺の後をついてきているヤツがいる。
モールに入ってからここに来るまでの道のりまで、ずっと尾行されている。
今のところ仕掛けてくる気配はない。
俺は振り返らずに、そのまま歩き続けた。




